011 空乃カナタさんも、罪ですなぁ……
有友家からの帰り道。あかね色の陸橋で、オタが笑ってボクに言う。
「きみは今、どん底なんだよ。だから、この夕日を楽しもうよ。どん底から見る夕日なんて、そうそうあるもんじゃないからね。きれいでしょ? うちは、ここで見る夕日が一番好きよ」
「そうだね、きれいだね……」
オタの言うとおり、今のボクはどん底だ……。
華々しく結んだ同盟は、なんの糸口もつかめぬままに、現状報告とボツ原稿の読み合わせでお開きとなった。その中に、ふたつの本棚の話題もあった。
「ねぇ~、ゴリラ。本棚の謎は解けそう?」
「そう慌てんなよ、ハルカ。判断材料が足りてない……」
「バカなの?」
「うっせー!」
北原色羽の本棚と猫のおじさん。それを結びつけたのは、オタではなく涼平だった。生真面目な涼平は、おじさんと同じ本まで読んでいた。どうやらふたりは本気のようだ。
「有友君、わかりそう?」
「強いて言えばですけど、葉山さん……」
涼平が導き出した結論は、なにかしらの目的でおじんさんは本を読んでいる。たぶん本命は……書くために。おじさんのように、ひと文字、ひと文字、かみ砕いて読むスタイルは、文体の解析。もしくは、表現の研究では? そう、涼平は推理した。そして、最後にこう付け加えた。
「仮に執筆手法の研究だとしても、一ページを読むのに数時間を費やしていた人物が、短期間のうちにそこまで読めるようになった背景には、向上心という軽い言葉では語れない、淀みなくがむしゃらな……執着とか執念のようなものを感じます。本の提供者が北原先輩だとしても、軽はずみに真相を語ってくれるとは思えませんね。引き続きリサーチを続けますが、葉山さん。あまり期待はしないでくださいね……ところで、この作品はすばらしいと思います。空乃カナタさんらしい、うたかたの夢を感じました」
ボツ原稿の中から、有友涼平が選んだ『リアリティ』……それは、ボクのおじいちゃんとおばあちゃんが来世で出会う物語。四国の若き作家の話題で盛り上がった、あの日の勢いに任せて書いた小説だ。ほんの数時間で書いたんだもの、小説のカタチにさえなっていない。
あかね色の陸橋でオタに言う。
「ボクなんて、永遠にどん底かもしれないよ……天道いろはのような天才でもなければ、知識豊富なAIでもないんだから。ボクはただの凡人なの……わかってる? レンジでチンみたいには書けないよ……」
「それは違うよ───」
髪を黄昏色になびかせて、オタが激しく首を振る。高校入学から三ヶ月。オタの髪は肩まで伸びた。少しだけ背も伸びている。
「きみには、『リアリティ』があるじゃん。うちも、あれが好き。すごく好き。だって、琴音ちゃんへの想いを感じるの。ゴリラだって、そうじゃない?」
オタの気持ちはすごくうれしい。けれども『リアリティ』には、致命的な欠陥があった。読者に輪廻転生を納得させるだけの材料がない。それがクリアできない限り、物語は成立しないのだ。
「悔しいけどね……空乃カナタに関して、ゴリラほど頼れる人はいないと思うの。だって、空乃カナタ作品のぜーんぶ、ゴリラは記憶しているんだよ。その意味……わかる?」
それはない。書いたボクでもそれはできない。天道いろはの作品ならいざ知らず、空乃カナタにそこまでの価値はない。
「冗談は、やめてくれない? もう、いいよ。今日はありがと……どん底の夕日もきれいだね」
もう、やさしくしないで……泣いちゃうから。
「よし! しょうがないなぁ……」
オタが陸橋の手すりをトンっと叩いた。
「ほんとのこと、教えてあげる。うちのどん底の話をしよう」
「……え?」
ボクはオタの顔を見た。オタは夕日を見つめている。
「死にたいって、思ったことある?」
「…………えぇ?」
オタは夕日から目を逸らさない。きっと、いじめられたころの話であろう。でも、死ぬだなんて……普段のオタから想像できない。
「うちはね、ここから見える夕日が一番好き。クラスのみんなに無視されて、トイレや裏庭や教室の隅っこで暴力を振るわれて、それを親にも先生にも言えなくて……苦しくなったら、ここで夕日を眺めていたの。きみがママから聞いたのは、ほんの氷山の一角よ。現実はね……もっと残酷だったの。いじめられっ子の修学旅行が、どんなものだか……きみにわかる?」
「………………」
ボクには言葉が見つからない。
「去年の夏休み、雨の中。うちはね、ここで道路を眺めてた。ほら、あそこ。カラオケボックスの前に、うちをいじめるグループが集まってた。あいつらは、中学最後の夏休みを謳歌しているのに、うちはひとりぼっちで雨の中。新学期が始まれば……また……今、ここで飛んじゃえば、うちは楽になれるかな? あいつらも、少しは反省してくれるかな。そしたらね……ぷっ」
オタがクスクスと笑い始めた。どうした、オタ!
「ちょうど、きみが立ってる場所。ふらふらと歩いてきたゴリラが立ち止まったの。傘もささずに、ずぶ濡れでね。こんな可愛い子がいるのに気づいてねーの。そしたらね、うちと同じように道路を見てた……『こいつ、死ぬ気だな』って直感したよ。だからね……」
オタがカニのように、横歩きでボクの隣まで近づいた。
「こうやって、『死ぬの?』って、訊いてやった」
オタがボクを見上げている。
「マジで訊いたの?」
「マジで訊いた。だって、今にも飛び降りそうな顔してたんだもん。雨で顔が濡れてたけど、ありゃ、男泣きってやつだね。そしたらさ、この手すりをね……」
やさしく陸橋の手すりを撫でるオタ。
「この手すり?」
「そう、この手すり。この傷があるところ。ここをゴリラが握りしめているの。腕をブルブル震わせて……よっぽど悔しかったんだろうね。あいつの奥歯がギリギリ鳴ってた」
悔しかった?
「で、どうなったの?」
「ゴリラはね、お医者さんから死刑宣告を受けたんだよ」
「死刑って? 有友君、大きな病気?」
ボクは深い不安に襲われた。
「試合中の怪我だよ……足の。もう、走れない。野球もできない。あこがれの甲子園も……今まで流した汗といっしょに水の泡。その帰り道で、うちと遭遇しちゃったの。つくづく運の悪い男だよね? で、うちより死にそうな顔をしてたから、そりゃ、放ってもおけないでしょ? だから、『死ぬの?』って訊いてあげた。幼馴染みからの情けだよ」
「幼馴染み……とは?」
思わず、オタの肩に手を添える。
「幼稚園からずっと、うちはゴリラと同じ学校だよ」
「どうして、教えてくれなかったの?」
「だって、きみに訊かれなかったから。でもさ、あっちは野球で学校のヒーローだから、うちと親しく話すことはなかったけどね。でも、ゴリラもうちの顔くらいは知ってるよ。同じクラスのころは、運動会でフォークダンスも踊ってあげた。幼馴染みって言っても、その程度。でも、うちの隣で死なれたら後味が悪いでしょ? だから教えてあげたんだ。『有友君って、読書が好きだったでしょ?』って。そう、あいつは野球に目覚めるまで、教室で本を読むような男子だった。小三まではそうだった。小学生のゴリラが、なにを読んでたか興味ない?」
「それは……あるかも?」
「三島由紀夫の『金閣寺』だよ。ひまわりで、最初に猫のおじさんが読んでた本。引かなーい?」
小三の坊やが三島とは……ハイレベルな小三だけれど、それは……引く。
「だから、うちのとっておきを教えてあげた」
「とっておき……とは? 太宰とか?」
「ち、が、い、ま、すぅ~!」
オタがボクを指さした。
「───空乃カナタ。葉山貴美子は知らないけれど、空乃カナタには不思議な力があるの」
ボクにそんな力はないよ……。今だって、オタに心配ばかりかけてるじゃん。オタが、自信に満ちた瞳でボクを見る───
「空乃カナタはね、人を生かす物語を書くの。毎日、死のうと思っても、物語が完結しないと死ねないの。それがうちの希望なの。それはすごい才能だよ。うちは、その才能に救われた。きみはさ、天才だぁ~、天才だぁ~って。天道いろはを呼ぶけれど、その天道いろはを嫉妬させたのが、空乃カナタだってこと忘れたの───? うちは誇りに思ったけどさ」
「うん……覚えてる」
それは北原色羽のマンションで、オタのコピー本にサインをした日のことだ。
「だから今日みたく、うちはゴリラを巻き込んだの。ゴリラにノベルンの存在を教えてあげた。効果てきめんだったね、空乃カナタの処方箋は。その日の深夜にメールがあったよ。『この人の作品が、俺の生きる糧になるかもしれない。ありがとう』ってね。うれしかったなぁ、初めての推し友。空乃カナタの作品を、あいつが記憶しているのに気づいたのは、うちがコピー本を作った日だよ。初めて葉山貴美子と対面した日。ゴリラが学校の帰り道で教えてくれた。歩きながら暗唱するんだよ、びっくりしちゃった。もうね、そんなことをされちゃったら、うちにとって特別な人にもなるでしょ? わくわくしちゃった……あいつ、ゴリラのくせに賢いのよぉ~」
なんて、さわやかにディスるのだろう……。
「それよりも、いじめは?」
ボクには、そっちの方が重要だ。
「ゴリラがうちを守ってくれた。だってうちらは、推し友だもの。無視されたりはあったけど、直接的な暴力や言動はなくなったよ。てか、野球部全員に守ってもらった。なにげに人望が厚いんだよねぇ……ゴリラ」
ん? 待て待て……ボクの予想とずいぶん違う。そこは推し友じゃなくて、彼氏じゃないの? この際だ、核心に触れておこう。このモヤモヤはストレスが溜まる。お肌のためにも!
「えっと……オタは、有友君と付き合っていないの?」
「なんで?」
即答だった。キョトンとした顔でオタが言う。
「だって、有友君の家で、すごく仲がよかったから。クッキーをアーンとかしちゃってさ……お母さんからも、公認みたいな?」
「げっ、うちがゴリラをぉ~!!! ハ、ハ、ハルカ……息が……」
陸橋の手すりにつかまって、オタがゲラゲラと笑い転げた。ボクは、窒息しそうなオタの背中を大きくさする。
「ごめん、オタ。だいじょうぶ? 息、できる?」
「こっちこそごめんね、落ち着いた。でも、ゴリラはうちの趣味じゃないの。ゴリラの本命もうちじゃないの。うちは本郷猛ラブだから」
はて? 県立如月高校に、そんな名前の生徒がいたっけ? それとも中学時代の同級生?
「何組の本郷君? もしかして……先輩とか?」
「えっ? 本郷猛を知らないの? それは、女子高生として……どうだろう?」
オタが目を丸くして驚いている。ということは、アイドルとか芸能人?
「ごめんね、知らない……」
「本郷猛は、仮面ライダーだよ」
「変身ベルトの?」
「そう、変身ベルトの」
えっと……仮面ライダーは知っている。日曜日の朝、弟が観ている特撮ヒーローだ。でも、仮面ライダーはたくさんいて、だれが本郷猛なのかがわからない。
「だったらねぇ~」
オタがスマホを左右に振った。
「これから、うちと一緒に動画を観よう! それと晩御飯は阿川春花と食べるって、ちゃんとカスミさんに連絡してね。カスミさん、怒ると怖いし……筋だけは通さないと、でしょ?」
それは、いいけど……。
言うまでもなく、カスミとはお母ちゃんの名前だ。かつてはレディースの長だった、浜のカスミもオタには弱い。お父ちゃんに至ってはメロメロだ。オタが遊びに来ると機嫌がよくなる。
「ねぇ~え、きみぃ~」
ボクの肩に手を回し、オタが意地悪な笑みを浮かべている。
「どしたぁ?」
「あの夕日をバッグに、どん底の記念撮影やんない?」
「いいよ」
オタのスマホで、ボクらは並んで写真を撮った。逆光でボクらは影のように映っていた。でも、雰囲気のよい仕上がりだ。悪くない。オタが東の空を指さした。
「背中の夕日は沈むけど、あっちから朝日が昇るの。空乃カナタも朝日になるの」
ボクはコクリとうなずいた……
「うん、やってみる」
「ねぇ~え、きみぃ……」
甘えたようにオタが言う。
「なぁ~に?」
「大人になっても、うちときみとは友だちだよね?」
当然だ。
「当たり前じゃん」
「うち。大人になったら、きみとやりたいことがあるの」
「どんなこと?」
「いろはさんと横綱みたく、きみと一緒にビールが飲みてぇ~! グイっとね」
北原色羽のマンションで開催される勉強会。それが終わると、決まって冷蔵庫に向かう星ゆかり。冷蔵庫から缶ビールを取り出して、北原色羽に一缶渡すと、ふたり無言で掲げ合う。
プシュっと炭酸が抜ける音。コツンとふたつの缶が当たる音。ゴクゴクと喉を流れるビールの音。ようやく、ふたりが口を開く。
「「ぶっはーーー!」」
オタはそれをやりたいのだ。
「うちは四月生まれだから、ビールを飲むのは、三月生まれのきみが成人するまで待ってあげるよ」
それ言う? だれも信じてくれないけれど、ともすれば、三歳くらい上に見られるボクだけど───いつもボクに甘えるオタは、ボクより十一ヶ月も年上だ。
「もうひとつ、いいこと教えてあげる」
「どんなこと?」
あかね色の陸橋は、『教えてあげる』のデパートだった。
「小説のことだよ……横綱が言っていたの。きみは大化けするって。いろはと同じタイプだって。物語は考えるものじゃなくて、降りて来るものなんだって。同時にいろんな場面が見えて、その映像が止まらなくなって、動けなくなって───『五月の雨』のいろはさん……ファミレスで号泣してたって」
小説家には、ふたつのタイプがいる。プロット重視派と降臨派だ。星ゆかりの目には、ボクは後者に見えるのだろう。これまで天道いろはを支え続けた、縁の下の力持ち。星ゆかりと阿川春花との間にも、有友涼平との間のように、多くの秘め事があるようだ。
「横綱が言ったんだ、『おチビはきっと、その場面と出くわすことになるやろうから、対処法を教えとく』って……」
対処法……とは?
「それって、どんなの?」
「教えまへーん」
オタが憎たらしい笑顔でボクに言う。
「だって、横綱からの秘策だもん。でも、特別に一個だけ。『リアリティ』のことは、だれにも言わないよ。作家のアイディアは、口が裂けても口外しないこと。横綱にキツく言われちゃった。うちが言うわけないのにね」
それよりも、ボクはオタの今が心配だ。
「オタ、いじめのトラウマとか……残ってない? なんでも言ってよ、力になるから!」
オタがボクを見つめてクスクス笑う。
「ゴリラが言ってた。『キャリー』が読めたら、トラウマ脱出なんだって。去年の秋にね……あの本、ママと一緒に買いに行ったの。そこで、レジを打ったの……いろはさんだった」
「それ、偶然?」
「そ、偶然。でね、途中までは読めたの。でも、いじめのシーンから先へは進めなかった。やっと今日、最後まで読めたの。うちにはきみがいるじゃない? だから、最後まで読めたの。ありがとね、きみぃ」
「いや、こちらこそ……」
「あれ、ゴリラはいつ読んだんだろうね? もしかして、小学生で? マセガキじゃん」
「「……ぷっ」」
「うちはね、そんなゴリラにサプライズを考えてるの」
そうだね、ボクとしても惜しみなく協力したい。
「それは、どんなサプライズでございましょう?」
「購買の〝めんたいパン〟───全力で走れないあいつはね、ぜったいに買えないの。だからこそ、うちはあいつに振る舞ってやりたいの」
二十個限定、めんたいパン……こりゃ、難問だ。ボクの教室でもギリギリ買えるかどうかのお宝だ。鈍足のボクには、出番なし……か。
「そりゃ、きびしいねぇ……」
「うん、きびしいの……」
どん底の雨の日に、有友涼平がつかんだ手すりを撫でながら、オタがぽつりとつぶやいた。
「空乃カナタさんも、罪ですなぁ……」
「え?」
「こっちの話……そうそう、本郷猛はね。パパが教えてくれたヒーローなの。でね、でね───」
夕日が山の向こうに沈むまで、ボクらは陸橋の上で語り合った。良いことも、悪いことも、楽しいことも、辛いことも……これからも、オタと語らいながら生きてゆく。

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