019 なんでも話せるお姉さん。
有友涼平の傘の中で、ボクは『リアリティ』を完結させた。スマホから目を離すと、雨上がりの公園が生命の息吹で満ちていた。
草木は天に向かって葉を伸ばし、マリーゴールドの鮮やかなオレンジに、ミツバチが群れをなしている。赤い雲の隙間には、天使の梯子が伸びていた。
彼を見上げて、ボクは問う。
「どうして傘を下ろさなかったの? 手……疲れたでしょ?」
ボクはどうして、こうなのか……?
「作家の希望に寄り添うのも、担当のお役目ですよ」
安定の有友スマイルに、せめて今だけと神に乞う。ボクは素直になりたかった。
「ねぇ、有友君……知ってる?」
「はい?」
「ここからね、夏祭りの花火が見えるのよ。毎年、家族と見ているの。もしも、有友君さえよかったら……」
高鳴る鼓動を隠すかのように、シャワシャワと蝉時雨が深くなった───。
ここまではよかった……ここまでは。
家に帰って、ボクは原稿を読み返す。
「そこまで? そんなに?」
雨、傘、そして彼……特別なシチュエーションが、ボクを酔わせてしまったの? 驚くほど粗が目立つ。
とはいえ、素人が書く小説だもの。多少のミスは許される。けれどもオタをがっかりさせたくなくて、ボクは加筆修正を繰り返す。
気づけば、窓の外で有明の月が浮かんでいた。でも、大丈夫。ボクの夏休みは始まったばかりなのだから。締め切りまでの時間はたっぷり残っている。そう思うと、なんだかお腹が空いてきた。
たまには、親孝行でもしようかな……。
日の出と共に部屋を出て、ボクは朝食の支度に取りかかる。いつも失敗する目玉焼きが、今朝は理想どおりの焼き加減。黄身の半熟具合も、お父ちゃん好みに仕上がった。
この出来映えなら喜んで、お母ちゃんは一番キレイに焼けた目玉焼きを、お父ちゃんに渡すだろう。
「ねぇ~え、ダーリン。貴美子が焼いた目玉焼きよん」
とか、甘い声で言っちゃってさ、朝なのに。
もしも無人島に、なにかひとつだけ持っていけるなら、迷うことなく、抗うことなく。そして、一点の曇りなく。お母ちゃんは「ダーリン」と答えるのに決まってる。たぶんお母ちゃんは、お父ちゃんを目に入れても痛くない。
そのダーリンが、オタを気に入ったと知るや否や、
「おい、ハルカ! あたしの男に手を出したら、マジで殺すよ」
小さな女子高生相手に吠えていた。
その暴言を、平然と聞き流すボクもボクだけれど、それもこれも、浜のカスミの教育のたまものだ。
遠い昔の帰り道、縁日からの帰り道。
小さなボクの手を引いて、お母ちゃんが言っていた───「こいつのためなら、命だってくれてやる。そんな男を見つけなよ」そんな母親を、ボクは尊敬してやまないのだけれど、それとこれとは話が違う。
オタの手前、ツッコミだけは入れといた。
「お母ちゃん! それは、お父ちゃんに言うセリフでしょ? カツアゲの……ぷっ」
ボクの両親の出会いは、カツアゲだった。
ヤンキーにカツアゲされていたお父ちゃんを、浜のカスミが助けたのだ。一方的に恋に落ちたお母ちゃんは、猛烈なアタックの末、お父ちゃんのハートを射止めたらしい……と、ボクの初恋の人が教えてくれた(諸説あり)。
そんなお母ちゃんは、来世もお父ちゃんを選ぶのだろう。それは、ボクのおばあちゃん。山下琴音にも言えることだ。だからこそ、ボクはお父ちゃんの長寿を願う。一日だけでいいから、お母ちゃんよりも長生きてしてね……と。
今の気持ちとピッタリな、『仲良き事は美しき哉』と書かれたお皿に、ボクは目玉焼きを盛り付けた……完璧じゃん!
テーブルに家族の料理を並べて、早めの朝食をとりながら、ボクはボールペンを走らせた。
───少し早いけどバイトに行きます。貴美子
お母ちゃんの茶碗の上に、そのメモを残して家を出た。
朝の冷たい空気が、心地いい───。
青葉台公園は、今朝も蝉の声に包まれていた。それは忙しげで儚げで、七日だけの命の声だ。
ボクは、昨日の余韻に浸りたかった。そっと指で、噴水の縁を撫でてみる…………彼の残り香を感じたかった。
でもそれは、恋心と呼べるものではなくて、安心感なのだとボクは思う。だって、有友君に命まではあげられないもの。
さて……やりますかぁ~。
公園の噴水の縁に腰を下ろして、ボクは原稿を読み返す。大筋はこれでいい。自分としては満足だ。
でも、だからこそ……。
ふと、髪をかき上げて気づいてしまう。なんだか、すごく伸びた気がする。いつも夏はショートなのに、オタとの約束で美容院へ行けてない。気づいてしまうと、気になってしまう。あぁ、髪を切ってさっぱりしたい。
「あれれぇ~、葉山さん?」
白いジャージ姿に野球帽。マスクで顔が見えないけれど、その声は……いろはさん? サッと、ボクは立ち上がる。
「おはようございます」
「こんな早朝に、阿川さんと待ち合わせ?」
マスクを取った彼女の素肌はもちもちしていて、アラサーとは思えぬほどの瑞々しさを保っている。どうして、彼氏がいないのだろう? それが不思議でたまらない。
世の男たちの目は、節穴ですか?
「いえ……小説のことを考えていたら、目が冴えて……気分転換になるかなと思って」
伏し目がちに、ボクは答えた。
「でも、それ原稿なんでしょ? それは、進んでいるって証よね。そうだ、私といっしょに歩かない? 私も今、小説を書いているのよ」
今……とは?
ボクの前にいるお姉さんは、天道いろはなのだろうか? 口調は北原色羽だけれども。
「歩きながら?」
彼女の手元に、ボクは視線を動かした。スマホも筆記用具もないのだが?
「そうよ。私とゆかって、夜はビールで忙しいでしょ? だから出勤前にこうやって、歩きながら考えるの……知ってる? 葉山さん」
知ってる……とは?
「歩くと全身に血が巡って、脳が活性化するのよ。多くの作家や著名人たちも、歩きながらアイディアを練るそうよ。たとえば……アーネスト・ヘミングウェイとか、村上春樹とか……」
それは……すごい。
「ねぇ、葉山さん。試しに、今日だけでも歩いてみない? 朝の公園は静かだし、職場も近いし、執筆にもってこいなの。朝の散歩は、お肌とダイエットにもいいのよ、ふふっ」
ボクのあこがれ、天道いろは。彼女がボクを誘ってくれた。早起きは三文の徳というけれど、こんなの神さまからのサプライズじゃん!
うれしい、うれしい、うれしい!
ボクに尻尾があったなら、ブンブン振っていることだろう。
「はい! 喜んで」
いつでも、お手の準備もできています!
公園の遊歩道を、ボクはあこがれの人と並んで歩いた。昨日の景色もよかったけれど、今の景色は別格だ。うん、やぱっぱり。有友君への感情は気のせいだ。
男子に慣れていないだけ。
「葉山さん、ノベルン大賞は?」
ノベルンが、ボクを現実に引き戻す。
「さよちゃん先輩とエントリーしました」
「そう、よかった。港さんも気にしていたわよ。葉山さんに、もう少し経験があればって」
経験……とは?
さよちゃん先輩とボクとは、ひとつしか年が変わらない。なのに……え? もう、キスと呼ばれるものを経験したと? そんなことをしたら、お嫁にいけない。てか、浜のカスミに殺される。
「それは、恋と呼ばれるものですか?」
背伸びして、問うてみる。
「別に恋だけじゃないわ。心が揺さぶられるような出来事ね……ところで葉山さん。気になる男子とかいるのかしら?」
昨日の出来事が頭に浮かぶ。
「いませんよぉ~。ところで、七月の勉強会で見たんですけど、本棚が空っぽになってましたよね?」
彼の影を悟られぬように、ボクは話題を変えてみる。
「まだ、私の本棚に興味があるの? それはもう少し、葉山さんが大人になってからね」
「もう少し?」
「そうよ。あの本棚には、私の大切な人の想いがこもっているの。そして、私の大切な人への希望もね。決して、隠しているわけじゃないのよ。だから、時期が来れば話してあげる……複雑なのよ」
本棚の謎がひとつ解け、ボクはコクリとうなずいた。これ以上は踏み込めない。
「気になる男子から本棚ねぇ……それって、すり替え論法みたいよねぇ」
北原色羽が意味深な表情で、ボクの顔をのぞき込む。
「葉山さん、わざと論点をずらしたの?…………えっ? もしかして……」
恐るべし、北原色羽。
これから始まるであろう誘導尋問に、ボクは抗うことができるだろうか?
「葉山さん、初恋もまだなの? それは、どうかしら?」
よし、セーフ! このまま初恋の話題で逃げ切ろう。
「あります、あります───初恋は、あります……」
「どんな人?」
北原色羽が、ボクの初恋に喰らいつく。
「ヤスさんが初恋でした」
「ヤスさん? ヤス君じゃなくて?」
「ええ、大人の人です。出会ったときから……」
北原色羽が、次の言葉を遮った。
「それって、葉山さん……不倫とか条例に反する行為じゃないわよね? まさかっ……学校の先生? それが事実なら、大変だわ……」
北原色羽が、眉間に深いシワを寄せている。
「ち、違いますよ。ヤスさんは、いつもいっしょに遊んでくれて、ボクの面倒を見てくれて、母に隠れてこっそりお菓子をくれました。ヤスさんのお嫁さんになりたかった……です」
「お嫁さんって、古風なことを言うのね」
「でも……母も祖母も、旦那さんひと筋なので……」
「それは、いいことよ。とても大切なことだわ。あなたの小説が真っすぐなのも、ご両親の影響なのね……」
北原色羽が、なにかを深く考えているようだ。そして、閃いたようにボクに問う。
「それって、幼いころの話?」
いろはさん、ビンゴです!
「そうです。ヤスさんは母の後輩で、ボクが生まれたときから遊んでくれて、ボクが七歳のときに結婚しました。こともあろうか夏祭りの縁日で、ヤスさんがボクに紹介したんです。お嫁さんになる人を。すごく楽しみにしていた縁日なのに、酷いでしょ? 金魚すくいの前で、ボク……わーわー泣いちゃって。ヤスさんには悪いことをしちゃいました」
北原色羽がクスリと笑う。
「うらやましいわ」
「えーっ、そうですか?」
「ホント、うらやましい。その話しぶりだと、ヤスさんって人。今も幸せに暮らしているんでしょ?」
「はい。今では笑い話になっています。ヤスさんの奥さんとお子さんにも、仲良くしてもらってます。それと、父と母との馴れ初めも教えてくれました」
誇らしげにボクは言う。
「それはステキな初恋ね、ふふふふふ……そういう経験も、小説の肥やしになるものよ。辛い恋ばかりが、人を成長させるわけでもないわ。その経験を生かしてみたら?」
「はい、そうします」
「ねぇ、思い出してみて。初めて小説を書いた日のことを。葉山さんは知らないけれど、あなたの書いた一行が、多くの心を動かしたのよ。私だって身震いしたわ……ちとせを思わせた」
ちとせ……とは?
「でも、あれは……」
あの一行を、どうやって書いたのか思い出せない。なにかがボクに憑依した……そんな不思議な感覚だった。
「それはね、紛れもない事実なの。以前にも言ったでしょ? 自覚しなさいって」
北原色羽の瞳は、天道いろはと違ってやさしさに満ちている。
「そうですね……そうします」
「ふふっ、いい子ね」
ボクのあこがれが、ボクの頭を撫でている。
なんでも話せるお姉さんって感じで、急に彼女とボクとの距離が縮まった。
「いろはさん。オタがボクの担当さんになってくれました。それで、文芸部の有友君が───」
オタのこと、さよちゃん先輩のこと、有友涼平とAIコンビ……そして、ひまわり畑の柳さん。
有頂天になったボクは、ペラペラと語って歩いていた。北原色羽の「うらやましいわ」に込められた、心の闇に気づかぬままに……。
あの日のボクは、愚かだった───。

コメント