020 ボクが助っ人?
「きみぃ、おっはようさん」
喫茶ひまわりに、オタの声がこだました。これからボクらはバイトなのだ。オタのピーチパフェも好評で、売り上げを伸ばしている。
「おはよう、オタ。昨日はありがとね。でね、ついさっき、いろはさんと散歩していたの。いろはさんは、散歩しながら小説を書くんだよ、スゴくね?」
公園での出来事を、ボクは語りたくてたまらない。
「それよか聞いたよ、ゴリラを花火大会に誘ったんだって?」
意地悪な笑みを浮かべるオタに、
「オタも誘うつもりで誘ったの。有友君だけじゃないの!」
ボクの顔が熱くなる。
「で、どこで?」
「なにがよ?」
「いろはさん」
「そこの青葉台公園よ。噴水の縁に座って小説を書いていたらね、ボクをいろはさんが見つけてくれたの。もう、朝から大興奮よ。明日もいっしょに歩くんだぁ~」
浮き足立って話していると、店にお母ちゃんが飛び込んだ。
「ママ、貴美子を借りるよっ! これに着替えな」
それ、お母ちゃんの会社の制服じゃん? てか、目玉焼きのお礼はないの?
「あんた、朝からやかましいねぇ~。親の顔が見てみたいよ、だれの子だい?」
カウンターから、身を乗り出すおばあちゃん。
「ママの子に決まってるでしょ? この体の半分はママの血よ」
そりゃそうだ。だってふたりは、見かけも中身もそっくりだもの。
「お母ちゃん、借りるって?」
ボクを現場に連れていきたいのはわかってる。でも、お母ちゃんには主語がない。
「ヤスが脚立から落ちたのよぉ」
「ヤスさんがっ!」
脚立にだっていろいろある。もし、七尺とか八尺の背の高い脚立だったら、ヤスさんだって無事では済まない。
「今、奥さんと病院に向かっているわ。骨折じゃないみたいだけどね、一週間は安静だろうよ。だから助っ人お願いね」
「ボクが助っ人?」
ヤスさんは、お母ちゃんが浜のカスミ時代からの後輩だ。お母ちゃんを慕って同じ会社に勤めている。ヤスさんは正社員で、お母ちゃんはバイトリーダーの立ち位置だけれど、現場を仕切るのはお母ちゃんだ。
「あんたも高校生になったんだ。これまで仕込んだ成果を見せてもらうよ。あんたが小さいころから世話になったヤスの代わりに。ガラスくらならやれるだろ?」
ボクは、幼いころから美装ノウハウを仕込まれた。窓ガラスに至っては、浜のカスミのお墨付きだ。
「でも……店もあるし、学校の許可も必要だし、そんな急に言われても……」
お母ちゃんの暴走癖は、いつものことではあるのだけれど、ものには順序があるでしょう?
「学校には連絡した。事情を説明して親同伴って言ったら、あんたの担任の先生が学校に話を通してくれるそうだよ。なにか不都合があったら電話くれるって。それに、ここにはハルカがいるじゃないの? 店にふたりもいらないでしょ?」
浜のカスミは策士であった。段取りにもぬかりがない。
「ねぇ~え、きみぃ」
ツンツンと、オタがボクの背中を突っついた。
「ねぇ~え、きみぃ。ヤスさんって、きみの初恋の人でしょ? だったら行ってきなよ。店はうちが守るから。行かないと後悔するよ。いいよね、琴音ちゃん」
「仕方ないねぇ~」
おばあちゃんは、オタのお願いを拒めない。
「それでこそ、ハルカだよ」
お母ちゃんがオタの頭を撫でると、
「へへへ。カスミちゃんに褒められちゃった」
オタが満面の笑みを浮かべている。公園で頭を撫でられたボクも、こんな顔をしたのだろう。ヤスさんのためなら、仕方ない。
「で、お母ちゃん。現場はどこ? 何時に帰れる? バイト代は?」
ボクも浜のカスミの娘だから、そこはキチンと押さえたい。たとえ相手が母だとしても。
「そこだよ、駅ビル。貴美子は高校生だから、四時までだ。十日ほど通ってもらうよ。バイト代は、あんたが欲しがってたノートパソコンでいいだろ?」
そりゃ、欲しいけど。バイト代としては高価すぎる。
「でも、お母ちゃん。ノートパソコンの値段、知ってるの?」
「知らないねぇ~」
お母ちゃんはとぼけたけれど、ボクはその顔を知っている。
まだボクが、サンタを信じていたイブの夜。物音に目を覚ますと、お母ちゃんと目が合った。そしてボクは気づいてしまう。
サンタにプレゼントを入れてもらうようにと、おばあちゃんがくれた赤い靴下が、ぷっくりと膨らんでいることに。
「お母ちゃんが、サンタさん?」
「知らないねぇ~」
あの日と同じ母の顔。つまり、お母ちゃんは謎のサプライズを企てているということか……。
「この案件、いただきました」
お母ちゃんから制服を受け取ると、オタがなにかに気づいたようだ。
「えぇー、駅ビルぅ? だったら、猫のおじさんと会えるかもよ? じゃ、喫茶ひまわりに四時半ねっ。猫のおじさんといっしょに来たりして……ぷっ」
今もなお、オタは『本のおじさんの観察日記』を書いている。彼は駅ビル工事に従事しているのだから、そんなふうに思ったのだろう。
「オタの予言は当たらないよ。そもそも制服が違うじゃない」
ボクの否定に、
「為せば成るだよ」
オタがキメ顔でそう言った。
その自信の根拠がわからないけど、ボクはわからないまま店を出た。
「ぬかるんじゃないよ」
店を出た途端、戦闘モードに入るお母ちゃん。これから先は、冗談すら通じない。
「わかってるよ」
ボクはお母ちゃんの後をついてゆく。いつものように、ボクが駅ビルへ入ろうとすると、
「こっちだよ、貴美子! 作業員は入場許可をもらって、バックヤードから入るんだ」
お母ちゃんが一喝した。
バックヤード……とは?
そこは、駅ビルの関係者だけが出入り可能な裏口だった。天井もなくて壁紙もなくて、工事途中のような光景に、ボクはコンサートの舞台裏にでも迷い込んだような気分になった。
なによりも、入場許可をもらうとき、「高校生は入れません」と、言われまいかとビクビクしていた。警備の人が警察官のように見えて怖かった……。
「貴美子、これに乗って。今日の現場は五階だよ」
「このエレベーター、おっきいねぇ~」
「当たり前だろ、このエレベーターで荷物を運ぶんだから」
運搬用エレベーターで五階へ上がり、迷路のような長い通路のその先で、超絶美女と目が合った。後ろで束ねた長い黒髪が印象的だ。
アーモンド型の大きな瞳と、それを縁取る長いまつげ。小顔の中心を通る鼻筋と端正な赤い唇。ふさふさとした太い眉。そのどれもが絶妙なバランスを保ちながら、彼女の美貌を引き立てている。
それに加えて、ボクよりも長身で、日本人離れした長い手足がランウェイを歩くモデルのようだ。
猫のおじさんと同じような、デニムの作業服をまとっているのに、洗練された容姿がハリウッドセレブを連想させる。
これぞまさしく、神の奇跡。
「かっこよぉ~」
その姿に、思わずため息が漏れてしまう。
あ、そっか。
きっと、この人。チラシのモデルさんなのだ。こんな美女が現場仕事なんてあり得ない。もっとこう、ブランド服に身を包んでさ……ボクとは違う世界の人なんだよ。
なんだか急に恥ずかしくなって、ボクは美女から目を逸らす。すると、お母ちゃんが超絶美女に向かって手を振った。
「よっ、カオルちゃん」
すると、超絶美女が微笑んだ。現場を照らす投光器なら一万ルーメン以上の輝きだ。
「この子、あたしの娘。貴美子ってんだ。今日は一日よろしく頼むよ。じゃ!」
じゃ!……とは?
ボクに千円札を渡すと、通路を戻ろうとするお母ちゃん。
「この現場、お母ちゃんといっしょじゃないの?」
ボクは慌てて、お母ちゃんを呼び止める。心細くて半べそだ。
「あたしらは、これからシビアな仕事をするんだよ。貴美子はカオルちゃんの指示に従いな。その千円はお昼代よ。飲み物は作業場のクーラーボックスの中に入れてるからね。わかんないことは、カオルちゃんに訊いてちょうだい。それと、駅ビル全体にエアコンが効いてるから、汗をかくこともないだろう。本日もご安全に、じゃ」
そう言い残すと、お母ちゃんはどこかへ消えた。獅子は我が子を千尋の谷に落とすと言うけれど、浜のカスミは現場に我が子を置き去りにした……「じゃ」ってなによ。
トボトボと、ボクはカオルちゃんの後をついてゆく。猫のヘアゴムで束ねた髪が、猫の長いしっぽのように、ゆらりゆらりと揺れている。
決して高級ではなくて、むしろ手作り感満載のヘアゴムだけれど、こういうのを大人の遊び心というのだろう。
いいなぁ……美人は。
「……」
「……」
ハラスメント対策だろうか? 終始無言のカオルちゃん。彼女は、どんな声をしているのだろう。ボクの予測では、色っぽくて艶っぽい声なんだけど。
バックヤードから本館に入り、お客さんたちに紛れて二分ほど歩くと、仮囲いの中へカオルちゃんが入っていった。
続いてボクも中に入ると、前面がガラス張りの店舗だった。なんの店なのかはわからない。
上段のガラスには脚立がいるけど、下段のガラスならボクの背でも届くだろう。
そのガラスの足元に、バケツ、シャンパー、スクイジー、スクレーパー、マイクロファイバークロス……ガラス美装の道具が几帳面に並んでいる。
にこにこ笑顔で、カオルちゃんが下段のガラスを指さした。細くて長い指が大きな円を描いている。
やってみろ……ってことで、いいのかな?
バケツの中を確認すると、すでに洗剤液が入っていた。つまり、お膳立ては整っているということね。これは、カオルちゃんなりの試験なのだろう。ボクの実力を試しているのだ。
それじゃ、やりますかぁ~。
バケツの中の洗剤液をシャンパーでガラスに塗り広げ、自動車のワイパーのように、スクイジーでガラスの水を切ってゆく。
こうすることで、拭き跡や拭きムラを残すことなく、ガラスがきれいに仕上がるのだ。
最後にガラス枠に残った水滴を、マイクロファイバークロスで拭き上げる。仕上げに、全方位からガラスを目視していると、
「へぇ~。うまぁ~い、もんだぁ。ちゃんと確認もできて、偉いねぇ~」
カオルちゃんが初めて喋った。
美しい顔から、こってりとした渋い声。想像を絶する違和感に、ボクの思考が追いつかない。
そうだ、これはボクの空耳だ。ボクは辺りを見渡して、男性の作業員の姿を探していると、
「俺は、工藤薫。貴美子ちゃんのことは、カスミさんから聞いているよ。そうそう、小説も読ませてもらった。うまいもんだ」
「……ありがとう……ございま、す?」
どういうこと?
この人は超絶美女で、声がこってりしていて、ボクの小説を読んでいて、それを褒めてくれている……で、いいのかな?
で、カオルちゃん。
どっちなの?

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