021 俺はこいつのストーカーだ!
駅ビル工事の仮囲いが世界をふたつに隔てていた。
囲いの向こうには見慣れた日常が広がっていて、ボクのいる内側にあるのは下地が露出した壁と床。天井からは、騒然となにかの配線がぶら下がっている。
ちょっとした異世界に、ボクの緊張は高まるばかりだ。頼れる母のいない現場に、好奇心よりも心細さが勝っていた。
それを察してなのだろう。こってりとした声で、工藤薫はよく喋る。
今日の天気やネットの話題。ありふれた会話の節々に、ボクは気遣いを感じていた。
今の話題は、お昼ご飯だ。
「お昼は俺に任せてよ。安くてうまい弁当屋があるからさ。ごちそうするよ」
「いいんですか?」
どんなお弁当なのだろう? ちょっと気になる。でも、おごってもらってもいいのかな?
「これから十日ほど世話になるんだ。遠慮なんかはいらないぜ。貴美子ちゃんの高校は進学校なんだろ? もらった弁当代は、参考書のたしにすればいい」
「ありがとうございます」
予期せぬ臨時収入に、ウォッシャーを持つ手が加速する。
「にしても、貴美子ちゃんは文才があるんだね。冒頭文から引き込まれたよ。これを中学生が書いたなんて驚きだ。次の作品は書かないの?」
ボクの作品を褒めてくれた。それが、お金よりもうれしかった。
「貴美子ちゃんの将来は、作家さんかもしれないねぇ」
もしも、ボクの『リアリティ』がノベルン大賞を受賞して、書店に並ぶ未来があるのなら……想像するのは楽しいけれど、
「それは、どうでしょう……」
ガラスに映るボクの顔が苦笑いで満ちている。ボクが何万人もの頂点に立つなんて……現実は甘くない。
「俺さ……活字が苦手で、小説っつーの? 最後まで読めた試しがなかったんだよ。そりゃ、カスミさんの娘さんの作品だからね。最後まで読まなきゃとも思ったさ。でも、すらすら読めたよ。お世辞抜きで面白かった。『お前が犯人だったのか!』ってね、ラストで悶絶したくらいだよ。トリックもそうだけど、貴美子ちゃんの表現は独特だよね」
カオルちゃんは、ボクの『ヒロシの事件簿』を読み込んでいるらしく、ボクとの会話は尽きなかった。
ガラスの美装を終えるころ、ボクはカオルちゃんに馴染んでいた。カオルちゃんとの会話は楽しい。オタに紹介したいと思うほどに。
でも、どっちなの?
「カスミさんは、すごいよね」
カオルちゃんが、お母ちゃんの話題に切り込んだ。妖艶な唇から白い歯を覗かせて、こってりとした声で笑っている。
「どうして、ですか?」
「自分の子どもが誹謗中傷を受けたら、俺ならカスミさんのようにはできないからさ」
もしかして、ボクのこと?
誹謗中傷を受けたことを、お母ちゃんは知らないはずだ。
「お母ちゃんが?」
ボクがガラスに塗り広げた洗剤液を、カオルちゃんが切ってゆく。スクイジーを止めることなく、
「それが親ってもんだろ?」
さらりと答えるカオルちゃん。淡々と、ボクの知らない事実を語る。
「ヤスさんと揉めたそうだよ。カスミさんは冷たすぎるって」
ヤスさんが?
あの温厚なヤスさんが、お母ちゃんに意見するとは思えない。
「貴美子ちゃんを守るべきだって。そしたら、カスミさん。どう言ったと思うかい?」
「そこでへこたれるなら、そこまでだ……とか?」
お母ちゃんなら、そう言うだろう。日和ってるなら、小説なんてやめちまえ。お母ちゃんは、それくらいのことを言う人だ。
「そのとおり。そしてこう付け加えたそうだ。『あたしの娘をなめるんじゃないよ。貴美子がぶちのめされて、泣いてあたしのところへ帰ってきたら、全力で抱きしめてやるさ』ってね。貴美子ちゃんに、この意味がわかるかい?」
「それは……」
突然すぎて、答えが出ない。
「カスミさんは、貴美子ちゃんのことを信用したんだ。それくらいでへこたれないってね。最悪に対する覚悟も決めていた」
最悪……とは?
「ボクが……するとでも?」
ボクは、最もしてはいけないことを口にした。けれども、スクイジーを操るカオルちゃんの手は止まらない。
「その最悪が起きたら、カスミさんは貴美子ちゃんの後を追うつもりだったそうだよ。だからスタッフ全員に、貴美子ちゃんの小説を読ませた……半ば、強引に」
そんなことで誹謗中傷はおさまらない。それにどんな意味があるのだろう?
「ボクの小説を読んでも、誹謗中傷はなくなりませんよ」
カオルちゃんが、クスリと笑う。
「そりゃそうだ。でも、いざとなれば反撃ができる。美装屋スタッフだって、文字も読めるし簡単な文章くらいは書けるからね。それに口も達者だ。なにを書くにしたって、貴美子ちゃんの小説を読むのと読まないのとじゃ大違いだろ? カスミさんは、貴美子ちゃんを見守りながら、一戦交える準備もしていた……貴美子ちゃん、手が止まってるよ」
「すみません……」
ボクは慌てて手を動かした。手を動かしながら、ボクは言う。
「それで解決できるとは思えませんけど?」
知識武装した誹謗中傷こそ、なめちゃいけない。
ボクの反論に、カオルちゃんの口角がニーッと上がった。その笑みは男性的で、野性味たっぷりにボクには見えた。
「いいんだよ、これは戦争なんだ。言うなれば数の問題さ。貴美子ちゃんこそ、カスミさんをなめないことだ。無鉄砲に見えても、カスミさんは策士だよ。俺もコメント欄を読んだけどさ、あれは少人数の犯行だ。それに対して……」
「それに対して?」
カオルちゃんが、とんでもないことを口にする。
「カスミさんの兵隊は百を超える。カスミさんの鶴のひと声で、コメント欄はどうなるだろうね?」
それはもう、ハルマゲドン……。
「コメント欄が罵詈雑言の嵐になります。相手の反論も追いつかない……です」
「だろ? でも、カスミさんが動く必要はなかった。可愛い救世主ちゃんが現れたからだ」
オタのことだ。
カオルちゃんは、オタのことも知っていた。たぶん、大方の事情も知っているのだろう。そこまでお母ちゃんを信頼させた、カオルちゃんはすごいと思う。でも、なんでわざわざそんな話を?
「たったひとりの味方のために、貴美子ちゃんは立ち上がった。そして、生涯の知己とも呼べる友を得た。ここで考えてみてほしい。カスミさんが我慢しきれず号令をかけていたら、今ごろどうなっていただろうね?」
そっか……カオルちゃんは、ボクにお母ちゃんを理解させようとしているんだ。
ガラス枠を拭きながら、カオルちゃんがボクの答えを待っている。
もしもあのとき、ボクが筆を折っていたら、尻尾を巻いてお母ちゃんに泣きついていたら。オタとの出会いはなかっただろう。
オタと出会えなければ、ボクが県立如月高校を受験することもない。ボクは小説の筆を折り、港小夜子、天道いろは、有友涼平とも出会えない。お母ちゃんの愛情が、ボクの未来を変えたのだ。
ボクの手は止まっていた。
「…………」
ボクの代わりにカオルちゃんが、ガラスに洗剤液を塗っている。
「そういうことだ。だから俺は、カスミさんをすごいと思う。だれもが彼女を、冷たい母親だと感じるだろう。けど、見守ることは強さだよ。それに見合う覚悟もね」
「お母ちゃん……」
ボクは、お母ちゃんに会いたくなった。今、会いに行ったら「仕事中だろ!」って、怒るんだろうなぁ。それでもやっぱり会いたくなった。
「ああ……そういえば、カスミさん張り切ってたよ。娘にパソコンを買ってやるんだって。今の貴美子は苦戦中だから、そのパソコンで小説を書かせるんだって。残業はできないけど、身入りのいい仕事を選ぶんだって……でも、どうしてカスミさんは残業を断るんだろうね?」
首を捻るカオルちゃんに、ダーリンの噂は届いていない。それを知ったら驚くだろうな。ガラスに映るボクの顔が、含み笑いを浮かべている。
「それは、お父ちゃんが帰ってくるからです。お父ちゃんは役所に勤めていて、帰る時間が決まっているから、少しでも長くいっしょにいたくて……お母ちゃんは残業しません。だから、社員にもならないんです。ボクにお母ちゃんが言いました。『こいつのためなら、命だってくれてやる。そんな男を見つけなよ』って。ボクの両親はラブラブです」
すると、カオルちゃんの手が止まる。カオルちゃんの手から、ボクはシャンパーを取り戻す。
「こんなところに、火の国の女がいたとはね……そりゃ、大事にしないと」
カオルちゃんがつぶやいた。
「はい。今夜はカレーにします」
「カレー?」
「大丈夫です、こっちの話です」
晩ご飯もボクが作ろう。カレーは、お母ちゃんの好物だから。
「ひとつ訊いてもいいですか?」
「他人行儀は、いけないな」
「はい」
思い切って、カオルちゃんに問うてみる。
「カオルちゃんは……どっちなの?」
「くくくくく……」
カオルちゃんの肩が揺れている。
「俺は男だよ、四人姉弟の末っ子だ。里で彼女だって待っている。上の姉ちゃんが俺を激愛していてね。着せ替え人形のように、小さな俺を飾り立てて……そしたら、この面だろ? 子ども心に、これは極めなきゃと思ったんだ。だから、美を追究している。地元じゃ少し名も知れて、『奇跡のおっさん』って、呼ばれているよ。よし、これで午前の作業は終了だ」
カオルちゃんが、慣れた口調でそう言った。ボクは思った。カオルちゃんも、なにかを背負っているのだと。
カタっ───。
ふと、背中に人の気配を感じた……もしかして、お母ちゃん? ボクを心配して見に来てくれたの? じわりと目頭が熱くなる。ちょっと待って。ボクは慌てて目を拭う。
美装道具を片づけながら、カオルちゃんがボクに言う。
「あ、いいところに来た。こいつは工藤凜。俺は工藤ちゃんと呼んでいる」
工藤……凜?
なーんだ、お母ちゃんじゃないのか。泣いて損した。背を向けたままのボクに、話を続けるカオルちゃん。その気遣いが身にしみる。
「俺たちは従兄弟で、九州からカスミさんの会社の応援に来たんだよ。カスミさんの会社の社長さんと、うちの会社の社長がわけありでね。じゃ、貴美子ちゃんと積もる話も終わったことだし、あらためて自己紹介をしようじゃないか。俺はこいつのストーカーだ!」
カオルちゃんがストーカー? カオルちゃんにそんなことをさせる工藤さんの顔が見てみたい。
「せからしかぁ!」
パーン!
謎の一喝と乾いた打音。
ボクの隣で、後頭部を押さえるカオルちゃん。
「なにしてくれてんの、工藤ちゃん! 貴美子ちゃんに、いい話をしてたのにさぁ」
ボクは振り返り、本能的に工藤凜を睨んでいた。ボクはカオルちゃんの味方だから。
「……あ」
予言者オタ、ビンゴだよ。
「え? こりゃどうも」
運命のいたずら? それとも夏の悪ふざけ? ボクの前に、猫のおじさんが立っていた。

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