022 カオルちゃんのくるりんぱ
本のおじさん、猫のおじさん。
桜の季節から知っている人なのに、蝉の季節に名前を知った。
本当の名前は、工藤凜。
ヤスさんが怪我をしなければ、彼の名を知ることもなかっただろう。今ごろオタと、モーニングセットを運んでいたのに違いない。
砂時計の砂粒のように、小さな偶然が積もった先で、ボクは工藤さんの前にいた。この事実を知らせたら、オタはどんな顔をするのだろう。
「工藤さん、葉山貴美子です。こちらでは短い期間ですけど、よろしくお願いします」
オタのように人懐っこくはできなくて、初対面でもないのだけれど、自己紹介をボクはする。
「あぁ、ひまわりの。君がカスミさんの娘さんだったのか。よろしく頼むね」
挨拶も早々に、現場を見渡す工藤さん。
「あの……」
見えない壁に阻まれて、彼との距離が縮まない。
微妙な空気を察してか、
「俺は貴美子ちゃんと昼にするけど。たまには工藤ちゃんも、どう?」
カオルちゃんが工藤さんを誘っている。
「いや、遠慮しとく。あと、この子に変なことを吹き込むなよ。嫁入り前の娘さんなんだから……」
そう言いながらガラスの仕上がりを確認すると、工藤さんはどこかへ消えた。
「貴美子ちゃん。俺の身内が、なんかごめんね」
カオルちゃんが頭を下げた。そんなの、カオルちゃんが謝ることじゃないのに……。
「いえ、いえ。工藤さん、いつもあんな感じですから……」
ボクは首を横に振る。
「あいつとは古い付き合いだけど、悪いやつじゃないんだよ。なんつーか、引っ込み思案でね。どうしても見過ごせないときは、自分から前に出るんだけどさ……」
ボクはひまたんの顔を思い出す。
「わかってます。ひまたんのときは、寝られなかったんじゃないですか?」
「ひまたん?」
「子猫です」
「あぁ……白い子猫ね。貴美子ちゃんは、ヤッケって知ってる?」
ヤッケといえば、ドラえもんしか浮かばない。
「胸に大きなポッケがあって、フードのついた薄いナイロン製の服ですか? たまにお母ちゃんが着ています」
浜のカスミがヤッケを着ると、ドラえもんに見えるのだ。
「そうそう。帰ってくるなりそれを探してさ。もう、『ヤッケは? ヤッケは?』ってうるさいんだよ。それで、俺のヤッケを貸してやったんだ。胸のポッケにタオルでくるんだ子猫を入れてさ、一晩中世話をしていたよ。まだ、目が開いてない赤ちゃんだから、俺は怖くて触れなかったよ。まぁ、あいつのことだから、触らせてもくれないけどね」
それは……わかる。
「ボクもです。触れると壊れちゃいそうで、見ているだけでした」
「貴美子ちゃんも? でも、そうなるよねぇ~」
「工藤さんって、猫に詳しいですよね。最初、獣医さんかと思っちゃいました。お里で猫ちゃんが待っていたりして……ふふふ」
ボクのなにげないひと言に、顔を曇らせるカオルちゃん。その雲を吹き飛ばすかのように、カオルちゃんが満面の笑みを浮かべてこう言った。
「よし、お弁当を買いに行こう!」
刹那に、カオルちゃんの異変とオタの言葉とが交差した。「昨日ねぇ、おじさんが猫と歩いてたの」───その記憶が、ボクの口を閉じさせた。
カオルちゃんにお弁当を買ってもらって、ボクらは三階の休憩室で食事をとった。工事関係者専用の休憩室は汗の匂いで満ちている。
「どう? うまいだろ?」
カオルちゃんの言うとおり、日替わり弁当は絶品だった。コスパと味とのバランスが絶妙だ。
「カオルちゃん、工藤さんは?」
工藤さんは、ひとりでなにをしてるのだろう?
「あいつは、一階のファミレスじゃないかな?」
「ファミレス?」
そこは唯一、男子とふたりで入った店だ……理由はともかく。
「あそこなら、ゆっくり本が読めるからね。あ、工藤ちゃんが喜んでいたよ。読書台を貸してくれたの貴美子ちゃんだろ?」
それは大きな勘違い。
「あ……読書台はボクじゃないです。バイト仲間の子が貸してくれました。その子、工藤さんの隠れファンなんですよ」
これを知ったら、工藤さんはどんな顔をするだろう。少しは表情を変えてくれるだろうか?
「へぇ~、工藤ちゃんも隅に置けないねぇ~。俺も、その子と会ってみたいもんだ」
カオルちゃん、それは容易いことですよ。
「喫茶ひまわりに来てくれたら、いつでも会えますよ」
「あそこはダメだよ。俺が行くと、工藤ちゃんの邪魔になるから」
邪魔になる……とは?
「ところで、カオルちゃんは工藤さんのストーカーさんなんですよね?」
それはとても失礼な質問だけれど、カオルちゃんには、なんでも訊ける雰囲気があった。
「そうさ、あいつのブログのね。たまにいいこと書くんだぜ」
ブログ? 工藤さんも、書く人か……。
「ボクは、工藤さんの本を読む姿しか知らないので、てっきり、読む人だとばかり思っていました」
「へぇ~」
カオルちゃんの大きな瞳が細くなる。こういう笑顔をチャーミングと呼ぶのだろう。
「あいつが本を読み始めたのは、つい最近だよ。だってあいつは、俺と同じで活字が苦手でね……で、三島なんとかって作家の小説に、四苦八苦していたよ」
カウンターに隠れて、オタが笑い転げていた日の光景が、昨日のことのように思い出された。
「ひとつ訊いてもいいですか?」
「他人行儀は、いけないな」
既視感のある会話だな……。
「ボクは、四月から工藤さんを見てきました。そこで、とあることに気づきました」
「どういうことかな?」
「ボクには、あこがれの作家がいます。彼女の部屋には本棚がふたつあって、同じ本が並んでいました」
「中身が同じ本棚ってこと?」
「そうです」
「なんでまた?」
「その本棚を見るたびに、片方の本棚から本が減ってゆきました。それが、先月空っぽになりました。その本が……工藤さんが読んでいる本と、ことごとく一致しているんです。カオルちゃん、どう思います?」
ボクはカオルちゃんの返事に期待を寄せた。もしかしたら、ふたつの本棚の謎が解けるかも?
ボクの期待とは裏腹に、カオルちゃんが答えを渋った。
「それと同じ本が工藤ちゃんの手元にあったとしても、俺にはなにも言えないな。貴美子ちゃんの救世主は健在だけれど、工藤ちゃんの……」
工藤さんの……とは?
「あ、そうだ。ちょっといい? ずっと気になっていたんだよ。じっとしてて、すぐに終わるから……」
ポシェットを手に持って、カオルちゃんがボクの後ろに回り込んだ。
「失礼しまーす!」
声がしたかと思うと、ボクの髪にカオルちゃんの指が触れている。美容室と似た感覚だ。 なによりも、こってりとしたカオルちゃんの声のトーンが高くなって、オネエ口調になっている。
カオルちゃんが櫛でボクの髪をといている。あ、ボクの耳が髪から出た。後ろ髪を三つにわけて、真ん中の髪をゴムで留めて……カオルちゃん、ボクのヘアスタイルを変えてるの?
だれの目から見ても、超絶美人のカオルちゃんがおかしなまねをするはずもなく、ボクは借りてきた猫のように、カオルちゃんの為すがままになっていた。ボクにお姉さんがいたのなら……そんなことまで思ってしまう。
頭皮に触れる指の感触が、マッサージみたいで心地いい。
「貴美子ちゃん。あなたは、おでこを見せた方が似合うのよ」
カオルちゃんの指先が、ボクの前髪を整える。
「思ったとおりだわぁ。これが、あなたよ」
うっとりとした表情で、カオルちゃんがボクに向かってスマホをかざす。
「これが……ボク?」
ボクはミラーアプリを二度見した……髪型って、大事だわ。
「そうよ、貴美子ちゃん。初めて見たときから思ってたの。この子、自分に似合うヘアスタイルがわかってないなって。ストレートの前髪パッツンは、貴美子ちゃんの顔立ちには合わないの。貴美子ちゃんはね、かわいい系よりも、きれいなお姉さん系の顔立ちなのよ。だから、カオル特製くるりんぱ。あとでやり方を教えてあげるわね。もう少し髪が伸びたら、もっと簡単にできると思うわ」
今のボクを見て、彼はどう思うかな……。
「ありがとうございます。うれしいです!」
後ろ髪に手を当てると、固いなにかが指に触れた……これって、猫の髪飾り?
「あの……これ」
「女の子をキレイにするのと、猫の髪飾り作りが俺の趣味さ」
元の口調に戻ったカオルちゃんが、自分の髪を指さした。キジトラ猫の髪飾りが、誇らしげに豊かな黒髪を束ねている。
それも作ったの? すご……。
「その髪留めは、貴美子ちゃんにあげるよ」
うわぁ、なんかうれしい。
「俺、美容師になりたかったんだ。みんなをきれいにできるから。でも、親父が他界したからね。姉ちゃんたちと美装屋を受け継いだというわけさ。そうだ、気に入ったのあったらもらっちゃって。たくさんあるから。これこれ!」
カオルちゃんが、ボクにポシェットを覗かせる。
「うわぁ~」
たくさんの猫の髪飾りが、ポシェットの中にあふれている。そのどれもこれもが魅力的だ。その中に、ひまたんにそっくりな白猫が!
「これ、オタにあげてもいいですか?」
オタが本気になったときのお団子頭。横綱モードが目に浮かぶ。想像しただけでも、めちゃ可愛い。
「オタ?」
「あ、工藤さんに読書台を貸してくれた子です。オタがボクの救世主なんです、阿川春花」
「だったら、これは貴美子ちゃんに」
カオルちゃんがポシェットの中から、同じデザインの髪留めを取り出した。
「これはかんざしだけど、救世主ちゃんとおそろだよ。これから夏祭りのシーズンだからね。かんざしは、浴衣姿に映えるんだ」
花火の夜……か。ボクはなんだかうれしくなって、
「カオルちゃんに、オタを紹介してもいいですか? とてもいい子なんです」
カオルちゃんを誘っていた。
「もちろんだよ」
ボクに相づちを打つカオルちゃん。
「それと……」
「なんだい?」
ボクは自分のスマホを手渡して、お願いごとをひとつする。
「ボクの後ろ髪、撮ってもらってもいいですか?」
自分の髪と猫の飾りを見てみたい。
「よかよ、よかよか」
その笑みは、あの日の工藤さんと同じだった。

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