003 阿川春花の読書台
ボクの過去とオタとの出会い。
それを二回に渡って綴ったけれど、時系列を五月に戻そう。そう、この物語の出発点へ……。
「だから明日、読書台をプレゼントしますの」
さよちゃん先輩の口まねをしながら、オタが宣言した翌日。白い読書台をバッグに入れて、オタが喫茶ひまわりにやってきた。
セーラー服から私服に着替え、店から支給されたひまわり絵柄のエプロンを着ける。オタの笑顔と相まって、エプロン姿がよく似合う。
「ねぇ~え、きみぃ。これ、これ」
ボクに読書台を掲げて、オタがニッコリ微笑むと、ボクの顔まで緩んでしまう。
「本のおじさん、喜ぶよ」
「うん!」
カウンターからお客の動向を見守りながら、楽しげに、そして誇らしく。オタが読書台を磨いている。
キュッ、キュッ、キュッ。
サンタクロースが、クリスマスプレゼントを準備するときも、こんな微笑みを浮かべるのだろう。店内のBGMには、神田川。
「赤い、手ぬぐい、見たことないわ」
鼻歌までもが飛び出すと、カウンター席のおじいさんが、ジェネレーションギャップを感じたのだろう。オタの「見たことないわ」に、肩を揺らせて突っ伏した。なにはともあれ、今日の日本も平和なようだ。
オタが鼻歌混じりでボクに問う。
「本のおじさん、喜んでくれるかなぁ~」
新妻か? てか、おじ専か?
ツッコみたい衝動に耐えているのも、オタの笑顔が尊いからだ。
もしも、国境線にオタの笑顔があるのなら、世界は平和になるだろう。見ているボクも幸せになる。
「それ、オタの読書台?」
「うん、小六のときに百均で買ったの」
「おじさんにあげるの?」
「貸すだけだよ。まだ使うし」
「ふ~ん……」
どうやら、プレゼントではなさそうだ。
「あっ、ここも汚れてる」
気に入らない部分があるようで、オタが小首を傾げている。
「パワーアップしますよ~」
そう言うと、スポンジの中性洗剤の量を増やして、頑固な汚れに挑むオタ。熱心に、よいしょ、よいしょ、って感じが微笑ましい。こんなの、永遠に見続けられるじゃないの。
「おや、そりゃなんだい? まな板かい?」
それに興味を示したのが、喫茶ひまわりの店主である。
山下琴音、六十七歳。
自称、永遠の二十四歳。
昭和を生きた、おばあちゃん。
茶飲み友だち募集中。
「琴音ちゃん。これはね、読書台っていうんだよ。ここにね、本を挟んで読むんだよ。これで、両手が自由に使えるでしょ? 百均で買ったの」
おばあちゃんに〝琴音ちゃん〟はどうかと思うが、おばあちゃんは気に入っているようだ。
「世の中、便利になったもんだねぇ~。で、だれがそれを使うんだい?」
さすがは永遠の二十四歳。好奇心の強さが、おばあちゃんの若さの秘訣なのだろう。
「いつものおじさん。本が読みづらそうだったから」
「ほう、お客様への心遣い。それは、とてもいいことよ」
「うぃっす!」
オタの笑顔に、おばあちゃんの目が細くなる。ほんと。オタは、世界を救えちゃう存在なのかもしれないな。
本のおじさんを待つうちに、ボクらがバイトを始めた経緯を説明しておこう。簡潔にまとめると、こうである。簡潔ではないけれど。
おばあちゃんは、ひとりで店を切り盛りしてきた。けれども年には勝てない。疲れが溜まることもあるだろうし、高い棚の皿を取ろうとして転んで怪我する可能性もある。てか、去年の二月に脚立の上から足を滑らせた。
店の南側一面はガラス張りになっていて、それは珍しくもないのだけれど、バレンタインの前日。ガラスを磨こうとした永遠の二十四歳は、脚立の上で足を滑らせた。
「貴美子、行くよ」
「どこへ?」
「ママのとこ。今、速報が入ったのよ。脚立から落ちたって!」
喫茶ひまりグループライン。またの名を、緊急おばあちゃん速報───。
おばあちゃんに何かがあれば、常連さんのだれかが知らせるシステムだ。それを機能させているのは、おばあちゃんの人徳だ。幸いなことに、謎の美男がおばあちゃんを抱きとめて、大事には至らなかった。けれど、お母ちゃんは激怒した。
「もう年なんだから。無理しないでよ、ママ!」
「永遠の二十四歳に向かって、なに言ってんだい? もう、年だなんて……ムカつくね。だったら、お前が手伝いに来なさいよ。お前だって、貴美子と同じ中二のころには、店の手伝いをしてくれたじゃないか!」
「何年前の話を蒸し返してるのよ!」
ボクの目の前で、母娘バトルが始まった。
「まぁ、まぁ。無事だったんだし……」
ボクが仲裁に入ると、お母ちゃんが妙案を思いついたようだ。
「娘の貴美子は?」
「孫の貴美子ね!」
「「そうだ、貴美子だ」」
こんな感じで、ボクに白羽の矢が立ったのだ。すると、どうだろう。お母ちゃんが、わざとらしくボクに訊く。
「貴美子や。だれにでもできる、高収入で好待遇のアルバイト。やってみない? まかない付きよ」
かなり虚偽が混じっていて、闇バイトの勧誘みたいな物言いだけれど、ボクからしてもお小遣いがもらえるし、バイトの経験は小説ネタにもなるだろう。ボクが中二だという事実を除けば、なにひとつ問題はない。
「いーよぉー」
ボクが二つ返事で了承すると、
「ホントに? 後悔しない? 仕事と結婚相手はね、しっかり吟味して選ばないと……後悔しても知らないよ」
ボクにおばあちゃんを押しつけた、良心とやらが痛むのか?
「しないよ」
「するかもよ? それでもいいの?」
「いーよぉー」
「チッ! 少しは、抵抗しなさいよ。ママぁ~、貴美子がいいってさ。よかったね」
おばあちゃんに向かってお母ちゃんが、肩の荷が下りたような顔で言う。
「なに言ってんだろうね、この子は。まだ、貴美子は中学の二年生だよ。高校生になるまでは、雇うなんて、できないからね。それまでは、娘のアンタが手伝うんだよ。毎日、小一時間でゆるしてあげるよ。一年ちょっとの我慢じゃないか」
おばあちゃんは、お母ちゃんの肩に、下ろした荷物を積み直す。
「一年かぁ…………長いわね。貴美子、なんとかならない?」
「それはむり……かな?」
ボクだって、そんなに急に大きくなれない。
「なるわけないだろ!」
おばあちゃんのうんざり顔が、まるで昨日のことのよう……。
ボクはこれで、オタはこうだ。
県立如月高校、初登校の日。港小夜子との会話の中で、ボクがバイトをしていることを知ったオタは、いっしょにバイトしたいと言い出した。とはいえ、町の小さな喫茶店だ。バイトふたりでは人手が余る。
そう……ボクは思うのだけど、強力なお母ちゃんからの後押しで、オタもバイトメンバーに加わった。オタの両親とお母ちゃんとの間で、ひと悶着あったらしいけれど、そこは詳しく訊いていない……だって、そこは親同士の問題だもの。
「きれい、ぴかぴか」
さて、読書台磨きも最終工程に入ったようだ。オタが、乾いた布巾で読書台を拭いている。
「できましたぁ。すばらしい出来映えだと思います。本のおじさん、喜んでくれるかな?」
「喜んでくれるに決まってるよ、新品みたいだ」
「やたぁ!」
オタと同じ時間を過ごせるだけで、ボクは十分満足だ。ボクが小説を投稿すれば、オタは感想を教えてくれる。海乃オトメのコメントではなく、阿川春花の生声で。ボクにはそれが新鮮だった。
「あっ。きみ、きみ、きみ!」
オタがボクの背中を連打する。
本のおじさんが入店したのだ。おじさんがいつものように、おばあちゃんに会釈する。
「「「いらっしゃいませぇ~!」」」
息もぴったり! 今日も元気な、ひまわりだ。
「待ち人来たりだよ、ハルカちゃん」
それ行け! と、おばあちゃんは言わんばかりだ。
「きみが渡して!」
ボクを見上げて、オタが読書台を押し付ける。
「なんでボクが?」
さっきまで、あんなに楽しそうに読書台を磨いていたオタが、今では、お澄まし顔になっている。まさか、本当に惚れちゃった?
「洗い物、入りまーす」
「「よろしくお願いしまーす!」」
何食わぬ顔で、洗い物を始めるオタ。
つまりは、ツンデレキャラを装うつもり? まぁ、そういうの。男子にはウケそうだけれど……自分で渡した方が、いいんじゃない?
読書台を持ったまま、ボクはオタの様子を見守るばかりだ。
「やれやれだねぇ……お客さんを待たせちゃいけないよ。ほい」
ひょいとボクの手から読書台を取り上げると、さっさと接客に向かうおばあちゃん。
「オタ、あれで……いいの? てか、よかったの?」
「うん、いいの」
オタの視線が、おばあちゃんを追っている。あ! おばあちゃんに、おじさんが会釈した。これは、交渉成立ということか?
「ホット、ひとつね」
おばあちゃんが、オーダーを告げると、
「はーい」
オタがコーヒーカップを準備する。コーヒーを淹れるのは、おばあちゃん。そうしながらも、オタはおじさんの一挙一動を見つめている。
バッグの中から文庫本を取り出すと、おじさんはそれを読書台にセットした。すると、オタがカウンターの陰にしゃがみ込み「しゃっ」っと小声でつぶやいて、小さな拳でガッツボーズまで取っている。なんたる可愛さ、なんたる健気さ。ボクはオタを抱きしめたい。
「コーヒー入ったよ、ハルカちゃん」
おじさんにコーヒーを運ぶのは、いつの間にやら、オタの役目になっていた。いつもなら、おじさんにコーヒーを運んだ後で、観察日記をつけるのだけれど、今日は塩梅が違うようだ。
「むり、むり、むり……ハルカ、むり」
オタが頑なに拒否をする。
でも、なんで?
「コーヒーが冷めるから、ボクが行くよ? いいの? ホントにいいの?」
念を押してはみたけれど、
「お願いします」
オタの意志は固いようだ。今日は代行ということで……おじさんにコーヒーを運ぶボク。
「お待たせしました」
テーブルの上にコーヒーを置くと、おじさんがボクに言う。おじさんは県外の人のようで、九州の訛りが少しある。
「あのぉ……この読書台。ありがとうとお伝え願えますか? いつものあの子に……」
なにこれ? ラブコメ?
ボクが戻ると、カウンターに身を隠すようにして、オタがおじさんを見つめている。
「ありがとうだって、オタ」
オタに伝言を伝えると、オタがふにゃりとした笑顔を見せた。可愛い……じゃん。守ってあげたいような笑顔だった。
「おじさんの読書の調子、よさそうだね」
「うぃーっす。あ!」
オタが何かを思い出したようだ。
「どうした?」
「今日のおじさん、なんの本を読んでたの?」
「人間失格」
「太宰さん?」
「そう、太宰さん」
案の定、おじさんの読書は捗った。いつもの十倍くらいの速度で読み進めている。大幅にメモの時間が短縮されたからだ。恐るべし、読書台。昨日、笑い転げていたオタの姿はどこにもなくて、オタは淡々と業務をこなした。
そして午後八時、喫茶ひまわりは店を閉める。BGMには蛍の光。オタのママが迎えに来るまで、ボクたちは店内を片付ける。
「好きなの? 本のおじさん」
テーブルを拭きながら、恐る恐るオタに訊く。本気の恋なら、どうしよう……。
「そんなんじゃ、ないよぉ」
ケラケラと笑って、オタが言う。それに、ボクの胸のつかえがスーっと消えた。
「でも、そんなふうに見えなかった、けど?」
窓の外でカップルが、腕を組んで歩いている。オタの目がそれを追っている。次の言葉をボクは待つ。
「えっとねぇ~。おじさんは、猫なの」
は?
「猫って、おじさんが?」
「だって、ウチの家は県住だから。猫を飼っちゃいけないの。だから、だいじょうぶなの」
なにが……でしょうか?
「そうなの?」
「そうなの、猫なの」
つまり、本のおじさんは、猫以上でも猫以下でもないって、こと? 異性としてじゃなくて、野良猫を愛でるような感覚で、ご丁寧に観察日記までつけながら、オタはおじさんを見ていただけなの?
それって、そんなに楽しいの?
オタの心情を理解できない自分がもどかしく、かといって、これ以上の言及も野暮なのだろう……。ボクは無言でテーブルを拭いた。思えばオタとの、こんな沈黙は初めてだ。
「きみ、こっち拭くね」
「うん」
テーブルを拭く阿川春花の小さな背中を、今は黙って見守ろう。なにはともあれ、オタはご機嫌なのだから。
ところで───だ。
オタの恋心ではなく純情を、おじさんはどう解釈したのだろう?
恋に年の差なんて関係ないというけれど、気づけば好きになっていた。そんなパターンもあるのだろうけど。オタの好意が、よからぬ方向へでも転んだら……。それを思うと、気が重い。
年を取ってからの勘違い。
常連さんが、言っていた。それがこじれると、ややこしくなるのだと。男は特に、そうらしい。邪推な考えをしたくもないけど、もしものときは、ボクがオタの身を守る。
ボクは小さく決意した。

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