後ろの席の飛川さん〝036 百冊目の雪国は……〟

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 元カノVS一途いちずさん。

 そこに、平和的な会話が成立するとは考え難く、言い換えれば、これは国境線に置いちゃダメなやつ。戦争の火種となりうる危険な状況。控えめに言っても修羅の道。その先にあるものは、罵倒、説得、血の雨だ───それを想像するだけで、身震いするボクである。

「元カノさん……たちですか?」

 恐る恐る問うボクに、あっけらかんと答える一途さん。

「そうだよ、黄瀬きせ君。あたしの呼びかけに、元カノ三人が集まった」

 それは、ちょっとしたホラーだな……。

「ひとりは、あたしの知人でね、その子が別のふたりに声をかけた。どの子も、みんな美人だったよ。集合場所は、あたしの行きつけの居酒屋だ」

 居酒屋の店長、お気の毒……。

「あたしは、あいつにフラれた。でも、女としての本能が、諦める選択を許さなかった。こんな感情は初めてだ。DNAレベルの恋だった」

 一途さんの気持ちは理解できる。でも、その行動には同意できない。ここは、聞くに徹するボクである。迂闊に口など挟めない。

「……」

「居酒屋の席で、三人が三人とも、あいつは最高の彼氏だったと証言したよ。いつも優しくて、サプライズもしてくれて、あいつのマンションに遊びに行くと、手料理でもてなしてくれたって。でも、彼女たちは別れることを選択した。黄瀬君、なぜだか分かるかい?」

「浮気ですか?」

 彼女さんの前で言うのは憚れるが、仕道しどうさんにはモテる条件が揃っている。そんな男性を、他の女性が放ってはおかない。ボクとは無縁の世界だけれど、ふらっと別の女性に手が伸びるのも、さもありなん。

「あいつは、そんなことをする男じゃないよ。やりたくても、できやしない。でも、あいつの頭の中には、別の人がいつもいる。ふたりでいるのに、ひとりでいるような感覚っていうのかな? その寂しさが積もり積もって、別れを告げたということだ。あたしには、その気持ちも理解できる」

「言っている意味が分かりませんが?」

「女の勘ってやつさ。好きな男が目の前にいるってのに、そいつの心は上の空……って感じだよ」

 一途さんは、諭すように言うのだけれど、余計に分からなくなるボクである。すると、一途さんが話題を変えた。

「居酒屋で三人からヒントをもらった。あいつの興味を引く唯一の方法だ」

「それは?」

 興味ある───

「読書だよ。あいつにとっての好物は、本の話題だけなのさ。だから、あたしはあいつに訊いたんだ。『小説を読んでみたいから、お勧めの本を教えてほしい』って。あいつは真摯に向き合ってくれたよ。最初に紹介された作品が、雪国だった」

「川端康成───ですね」

 この作品は、美しい情景描写が絶品だ。ボクだって、同じ質問をされたなら。きっと、雪国を勧めるだろう。文豪小説は、読書のトレーニングにもなるのだから。

「そうだ。二冊目は、金閣寺」

「三島由紀夫───」

 二冊目に金閣寺だって? 急に難易度が上がったな。本を読み慣れていない人ならば、少なくとも一週間くらいの時間を要するはずだ。これは、キツい……。

「三冊目が、ヴィヨンの妻」

「太宰治───」

 雪国、金閣寺、ヴィヨンの妻……緩急をつけたチョイスだな。人間失格を避けたのは、一途さんが女性だからだろうか? 仕道さんの意図が気になるボクである。

「黄瀬君は、あいつと話が合いそうだ。川端、三島、太宰、芥川、夏目……二十冊ほど文豪作品が続いたよ。今時だ、文豪小説なんて読まないだろ? あたしゃ、てっきりラノベだと思ってたから……苦労したよ。三島由紀夫は難解な言葉の連続だ。でも、昼夜問わずに本を読んだ。それこそ、辞書を片手に本を読んだ。だって、そうだろ? 本を読み終えると、あいつが会ってくれるんだ。深夜だって会ってくれるんだ。あたしの話を聞いてくれるんだ。それが、うれしくて、うれしくて」

 邂逅かいこうへの扉を見つめる一途さんに、素朴な疑問をぶつけるボクである。

「邂逅の本の中に、同じ本が二冊並んでいる作品がありますね。その片方の所有者は一途さんですか? 少なくとも、さっきの三作品は二冊ずつありました。でもそれは、大きな問題ではありません。ただ、二冊ある本の数が、九十九冊というのが気になりました。百冊じゃないのが気になって……なんと言うか、不自然です」

 一途さんが、淀みなき目でボクを見る。

「そうだよ。九十九冊の本は、あたしの本さ。でも、百冊目だって邂逅にはある。それは……」

「仕道さんの雪国ですね?」

 人の目は、感動や驚きを隠せないようにできている。大きく瞳孔が開くのだ。まさしく、一途さんの目が語っている。ボクの推理が正解であると───

 一途さんが、ため息混じりに小声でつぶやくく。

「……ったく……忍はすごいな。こんな子を、あたしに会わせてくれるんだから……」

 また、広瀬さん?

「百冊目の雪国は、キミの言うとおり、あいつの本だ。二度目の雪国を読み終えると、あいつが食事に招いてくれた。その場所は、あいつのマンションだ。あたしは、天にも昇る気持ちだった。あいつの手料理を食べながら、あたしは雪国の感想を夢中で語った。その後で、今でも好きだとあいつに伝えた。あいつはね『つつみさんは、頑張り屋さんですね』って、あたしの頭を撫でてくれた。百冊の本は、あいつの心を開く鍵だった。その扉の向こうには、ある女性の生き様があった……それは、命をかけた純愛だった。あたしはね、あんな人になりたいと思ったんだ……」

 一途さんの視線がボクの背後を見つめている。どうやら、壁を見つめているようだ。壁には大きな写真が飾られている。無数の花が咲き誇る、広大なひまわり畑の風景だ。そこに、誰かの姿があるのだろうか? ボクは無意識に振り返り、写真の中に人の姿を探す。きっと、誰かがいるはずだ。

「黄瀬君、どうして人は死ぬんだろうね? 神さまってのは、いるのかね?」

 一途さんの声が震えていた───

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