000 本のおじさん
おばあちゃんが言っていた。人を笑う者にはバチが当たると。そのバチ当たりな少女が、ボクの隣でもがいている。
阿川春花、県立如月高校一年三組。身長順に並ぶと一番前が特等席。趣味は読書。特技なし。成績は中の下。髪型は少し伸びたボブカット。トレードマークは、ふちなしの丸メガネ。人懐っこいゆるカワ系。入学してから、すでに四回ほど告られている。
そして、かけがえのないボクの親友。彼女をオタと呼べるのは、今のところボクだけだ。
「もう、むり。ハルカ、むり!」
ククククク……喫茶店の片隅で、笑いをこらえるオタがいた。
───喫茶ひまわり。
この店は、ボクのおばあちゃんの店である。
山下琴音、六十七歳。
自称、永遠の二十四歳。
ボクのお母ちゃんのママであり、言い換えれば、母方の祖母にあたる人物だ。おばあちゃんの楽しみは孫の小説を読むことで、おばあちゃんの生きがいは〝ガラスの仮面〟の最終話を読むことだ。
おばあちゃんが喜ぶのなら、一日でも早く最終話を読ませてあげたいけれど、おばあちゃんの生きる糧となるのなら、一日でも遅く描いてほしいとボクは思う。おばあちゃんには、一日でも長く生きてほしい。それを思えば、創作物には人を生かす力があるのかもしれないな。
そんなおばあちゃんの店は、昭和の名残りで満ちている。初めてひまわりに来たオタは、店の前でこう言った。
「昨日の夜にね、ネットで見たけど……このドアの向こうに昭和があるの? なんだか、タイムマシンみたいだね」
ドアを開くと昭和のヒットソングが流れてきて、店内はおじいちゃんやおばあちゃんの笑い声であふれていた。それはさながら、敬老会で、同窓会で、想い出話の発表会。
欽ドン、欽どこ、たのきんトリオ……謎の単語が飛び交うたびに、オタは外国へでも迷い込んだような顔をした。
「琴音さん、若い子たちが来たよ!」
「そりゃ、うちの孫よ」
「「あっ、はっ、はぁ~!」」
マンガの吹き出しに書いてあるような、笑い声。
きっと、彼らの過去の姿がボクらであり、ボクらの未来の姿が彼らなのだろう。どうせ年を重ねるのなら、どうせ年老いてゆくのなら。たぶんボクらは、老いに抗おうとするのだろうけれど……ボクは、あんなふうに年老いたい。いつまでも、あんなふうにオタといっしょに笑っていたい。
ほんの一ヶ月ほど前のことである。
「ねぇ~え、見てみて。また始まったよ、本のおじさん」
グイグイと、オタがボクの袖を引っ張った。
小さな肩を震わせて、オタが笑いのツボにはまっている。ククククク……その笑いは底なしの沼。もがけがばもがくほど深みにはまる。カカカカカ……お腹を押さえて呼吸をするのも辛そうだ。つぶらな瞳に涙さえもが浮かんでいる。
オタはよく笑う女の子だ。「あんたくらいの年頃の女の子は……」おばあちゃんが言うとおり、オタは箸が転んでも笑うのだろう。
そんな彼女が、とある歌謡曲の歌詞でも笑っていた。「赤い手ぬぐい見たことない」と。
ボクはオタの笑顔が好きだけれど、今のボクらはお客じゃない。だって、そうでしょ? 喫茶ひまわりで、ボクらはバイトの真っ最中だ。それなりの所作というものがあるだろう。
「およしなさいって」
「だってぇ、ククク……」
ボクらが本のおじさんと呼ぶ人物は、オタのお気に入りのお客さんだ。オタの性格から察すれば、そのうち話しかけたりするのだろう。けれど、今のところは大人しい。こっそりと、すずめを観察するかのようである。
───本のおじさん。
彼がひまわりに通い始めてから、かれこれ一週間ほどが経過した。
どうやら駅ビル改修工事で働く現場作業員らしく、いつも同じ作業服姿でやってくる。おじさんと言っても、三十代の後半くらい。もしかしたら、もう少し高齢かもしれないし、もっと若いのかもしれない。よくわからないけど、総じておじさんであるのは、見てのとおりだ。
初の来店は、ゴールデンウィークの最終日……だったかな? 決まって、午後五時から六時の間にやってくる。おばあちゃんの話では、何度かモーニングやランチを食べたこともあるそうだ。
ボクらは、おじさんの名前も住所もなにも知らない。これから先も、尋ねることすらないだろう。喫茶店だもの、みんな通りすがりのお客さま。客商売とはそんなものだ。
おじさんは、決まって同じ席を選んで座る。先客がいれば、「また来ます」と言って帰ってしまう。その席以外には座らない。それに気づいたオタは、言葉巧みにお客を誘導して、おじさんの席を確保する。オタが言うには、これはバイトの特権なのだとか。それは、職権乱用ではないだろうか? ボクはそう思うのだけれど、おばあちゃんは黙認している。
「いらっしゃいませ、ご注文は?」
「いつもので……」
いつものとは、ブラックコーヒーだ。それを注文すると、おじさんは二時間ほど本を読む。二時間を費やしても、内容を理解するまで、先に進む気がないかのように、読み進むのは数ページ。おじさんは、とてつもなく読む速度が遅いのだ。
「ほら、あれ。幼稚園生みたいじゃん」
「オタ、お客さまに失礼だよ」
本のおじさんが背中を丸めて、指で文字をなぞりながら、文庫本サイズのノートにメモを書き残し、なにやらスマホを開いて調べている。そして、「あっ」みたいな笑みを浮かべて、スマホの文面を書き写す。ゆっくりと丁寧に。
オタは、その仕草が愛おしくてたまらない。スマホの中に、本のおじさんの観察日記までつけている。だからおじさんが、いつも同じ席を選んでいることに気づいたのだ。
「だって、かわゆいじゃん。マジメじゃん」
おじさんは、読めない漢字や熟語の意味を調べているのだろう。おじさんのノートは、小さな文字でびっしりだ。そうそう、文庫本サイズのノートの名前。たしか、マイブック……だったかな。
「そうだねー。でも、お客さんをジロジロ見ない方がいいよ」
「むぅ~」
「むぅ~、じゃない!」
ボクはピシャリと釘を刺す。
「だって。金閣寺だよ、由紀夫だよ。ウチも苦労したけど、おじさんには難易度が高すぎるんだってぇ~。読書はね、絵本からだよ。絵本から。100万回生きたねこからだよ」
オタはかなりの読書家らしく、電子書籍よりも紙の本を好んで読んでいる。図書館で借りた書籍が、いつもカバンの中に入っていて、活字に慣れているのだろう、速読か? 恐ろしく読むのが早い。
とはいえ、店の中で紙の本を読むお客さんなんていやしない。高齢者でもスマホで電子書籍を読んでいる。だからこそ、本のおじさんのアナログ感が、嫌でも目立ってしまうのだ。それがオタの琴線に、ポロンと触れてしまったようである。
オタにとって本のおじさんの来店は、楽しみなテレビ番組と同じなのだ。本のおじさんが来ない日は、「本のおじさん、来ないかなぁ~、いつもの席だって空けてるのにぃ……」と、本のおじさんの話ばかりをしている。
結局のところ本のおじさんは、今のオタの推しなのだ。
「だってぇ~、あれだよぉ~……ぷっ」
本のおじさんは、いつものように背中を丸めて、指で活字をなぞっている。それはさしずめ、考古学者が石版に刻まれた古代文字を解読するかのようである。
言い換えれば、金閣寺の暗号を解くかのように見えるのも、ボクが字書きの端くれだからなのだろう。ボクは創作サイトでミステリを書いている。一番の読者は、おばあちゃんとオタである。大切な読者に嫌われたくない。その気持ちは山々だけれど、
「だから、オタ。言うなって。そういうとこ、よくないよ」
ボクは再度、釘を刺す。
「だってぇ~。もっと、やり方ってのがあると思うの」
オタは、まったく動じない。
「そうでもないよ。確実に進化しているよ」
「ほんと?」
オタがコトンと首を傾けた。
この数日で、右手にペンを持って読むようになった。これでタイムロスが、かなり減る。それは、大きな進歩である。それに気づいたおじさんは、偉い。たまに忘れて元に戻るが、そのうち定着するだろう。今のところ、順調そうだ。
「でも……ほら、ほら、またやった」
本のおじさんは、不器用だった。
マイブックに書き写すとき、文庫本への意識がおろそかになって、それでも、左の肘で本を押さえるのだけれど、それが往々にして失敗し、文庫本は自動的に閉じてしまう。
おじさんが失敗すると、オタは笑い転げてため息を吐く。とても辛そうな表情で……。
「ねぇ~え、きみぃ。ウチはおじさんの本を支えてあげたい気持ちで、いっぱいです。とても、とても。とっても、おじさんが心配です」
オタが敬語を使うとき、決まって、早口でしゃべる癖がある。
「だから明日、読書台をプレゼントしますの」
一瞬だけ、文芸部の先輩っぽい口調になった。話が長くなるので、さよちゃん先輩の件は割愛しよう。
活字を見ながらでなければ、本のおじさんは書き写せないようで、ひとつの熟語を書き写すだけでも、何度も文庫本を開き直す。なにはともあれ、根気のいる作業であるのに違いない。
「それは名案だよね。オタも偉い!」
「ですっ!」
オタがドヤ顔で親指を立てた。
こんなふうに読んでくれる読者の存在は、書き手からすればありがたい。たとえそれが、文豪三島由紀夫であったとしても、黄泉の国からそう思っているのに違いない。
物語とは、読む人がいて初めて他者へと認識される。読む人がいなければ、どんな物語であろうと存在していないのと同じなのだ。それがたとえ、すぐれた作品であったとしても。物語は、読まれて初めて生を受ける。ボクの持論だ。
オタの言うとおり読書台があれば、おじさんの読書が捗るだろう。気の利くやさしい子。それが、ボクの親友。阿川春花だ。
「も、も、もうだめ。も、も、も……ハルカ、むり!」
ほめた途端にこれである。
おじさんに背を向けて、オタはカウンターの陰にしゃがみ込む。笑う門には福来るだけれど、おじさんに気づかれでもしたら……そう考えるだけで気が気じゃない。
ボクの足元で、小さな肩を大きく揺らせて、息を殺してもがくオタ。あまりに苦しそうなものだから、彼女の背中をボクはさすった。
「きみは、いつもやさしいね。ありがとう。楽になったよ……ククククク……」
「え?」
「だって、背中をさすってもらってるから……ありがとうで……いいんじゃない?」
小さな背中をさすりながら、ボクは彼女と出会った夜を思い出す。
肺でも、腎臓でも、目でも、耳でも……いつだって。片方を彼女に捧げてもかまわない。ありがとうと言いたいのは、ボクの方だ。
そしてそれは、これからも。

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