001 ボクの親友、阿川春花
阿川春花がいなければ、ボクは筆を折っていた。
きっと今ごろ、空っぽな高校生活を過ごしていたのに違いない。小さな背中をさすりながら、彼女との出会いに思いを馳せる。それは、去年の春休みの出来事だ。創作サイト『ノベルン』で、ボクは誹謗中傷を受けていた。コンビニ前の桜の木。そこに小さなつぼみが芽吹くころ、ボクは極寒の中にいた。
もう書くな、下手くそ、情弱、脳弱、ネットのゴミ、このクズ野郎、読むだけで虫唾が走る……消えてなくなれ!
忌まわしい過去の記憶が蘇る。
ふたり組の字書きつぶしに、ボクは目をつけられたのだ。なにが逆鱗に触れたのか? 今もなお、その理由はわからない……。ただ、彼らの論法は巧妙で、かつ的確で。なによりも、ひとの壊し方を熟知していた。重箱の隅をつつくようなコメントが、過激さを増してゆく。卓越した語彙を駆使して、ボクの精神を切り刻む。
新参者のボクは丁寧に対応したけれど、ボクにだってプライドがある。それがやつらの手だとも知らずに、反論できるところには異論を唱えた。飛んで火にいる夏の虫。それを拡散されてしまったのだ。
悪意の言霊はネットの彼方で膨張し、ボクの城で破裂する。
他人の不幸は蜜の味、新たな魔の手が忍び寄る。こうなってしまっては、もはや抵抗する術もなく、悪意の火種が業火となった。夜となく昼となく、スマホの通知音が鳴り響く。いじめの構図の完成だ。
ボクの精神は疲弊を極め、困窮し、思考がすべてを放棄すると、なにも書けなくなっていた。なにを書いても否定され、どう書いても拒絶され、ひと文字を書くのでさえもが恐ろしい。
創作サイトの四天王、天道いろはへの憧憬は、ネットの水面で焼け落ちて、創作意欲さえもが灰となる。
もう、いいや。
───尊敬する天道いろは先生、ボクはひとりの読者に戻ります。以前のように、あなたの小説を心の支えに生きてゆきます。コメント欄に、空乃カナタの名があれば、それがボクからの感想です。
ボクは、あこがれの作家にコメントを残した。それが、ボクの遺書だった。遺書を残して、筆を折る。どうせ、ただの作文だもの。中学生の自己満足だもの。完結させてもしょうがない。読んでくれる人なんて、だれもいない。ボクの小説なんて、ゴミだから。
自決にも似た感情で、ノベルン脱会を決めた夜。ふわりと彼女が舞い降りた。
───カナタさんのミステリが大好きです。ずっとずっと、応援しています。あれはね、嫉妬だよ。きみにはね、妬まれるほどの才能があるんだよ。世の中にはウチみたく、カナタさんの作品を楽しみにしている人がいるんだよ。だから、負けないで。海乃オトメより。
夢かと思った。
ボクは思わず息を飲む。何度も彼女のコメントを読み返し、その文面に涙した。
それが、阿川春花。ボクの親友、オタとの出会いだ。
───海乃さん、ありがとうございます。ボクの春休みを、この作品に捧げます。読んでくれてありがとう。空乃カナタ。
オタのコメントに返信し、もう少しだけ書こうと決めた。せめてこの作品を完結させるまで、踏んばってみようと決意した。
アマチュアと言えども、それが字書きとしての礼儀であり、読んでくれた人への誠意なのだから。
これが宣戦布告となるだろう。これまでよりも、誹謗中傷の勢いが増すのだろう。それでもよかった。来るなら来い! どうせ散るなら、激しく暴れて散ろうじゃないか。爪痕のひとつでも残そうじゃないか。
たったひとつの肯定が、たったひとりのやさしさが、惨めな蚊とんぼをオオカミに変えた。恐れるものは、なにもない。コンビニ前の桜の木、つぼみが大きく膨らんだ。
スマホの通知をオフにして、ボクは書くことのみに集中した。無我夢中でスマホに文字を打ち込んだ。ボクが更新するたびに、海乃オトメは感想を残した。オタの言葉が勇気をくれた。ボクは処女作を、オタだけのために書き続けた。
しばらくすると、コメント欄に異変が起きる。沈黙していた読み専たちからのコメントが、水で毒を薄めるかのごとく、悪意が目立たなくなっていったのだ。
それを境に負のコメントは減少し、ボクとオタとの距離が近しくなった。ボクはラストへ向かってひた走る。
オタはボクの恩人だ。だから肺でも、腎臓でも、目でも、耳でも……いつだって。片方を、彼女に捧げてもかまわない。
その気持ちは、今も胸に。
「どうしてオタは、あのとき助けてくれたの?」
オタは笑って、こう言った。
「だって、タメで近所じゃん。もったいないなぁ~って、思ったの。きみの小説、最後まで読みたかったし……」
ボクはノベルンに、年齢と地域を公開していた。それを、オタは知っていた。
お気に入りの作家が近くに住む同級生。これを知っていたからこそ、オタはボクに手を差し伸べた。たったそれだけで、ボクに手を差し伸べてくれたのだ。
ことあるごとに、オタは「ありがとう」と、ボクに言う。でもそれは、ボクのセリフだ。
ボクの初めての小説が、完結を迎えた夜のこと、海乃オトメからのメールが届く。
───空乃カナタさん、とても面白かったです。正直、感動しちゃった。ねぇ、カナタさん。一度、会わない? 家、近くだし。ウチがお弁当を作るから、いっしょに食べませんか?
その誘いがうれしかった。今から家を飛び出して、彼女にお礼を告げたかった。でも、ダメだった。彼女と会う勇気がボクにはなかった。
こんなやつ……幻滅されるのが、なによりも怖かった。オタと顔を合わせれば、すべてが台無しになるだろう。ボクは、丁寧に断った。
───だったら、空乃カナタさん。同じ高校を受験しようよ。そこならウチと会えるでしょ?
その提案に乗っかった。ボクの成績では、少し困難なチャレンジだったけれど、県立如月高校を受験しようと決めたのだ。コンビニ前の桜の木。つぼみが開いて花が咲く。新たな小説を書きながら、ボクは受験勉強に明け暮れた。中学最後の夏休と冬休みを返上して……。
そしてこの春、ボクらは無事に合格した。それに歓喜したのが母である。
「進学校なのに学費が安い。これぞ、親孝行というものよ。この調子で大学受験も国立ねっ!」
「…………まぁ」
高校に合格したばかりなのに、しれっと次のハードルを上げるのか? ボクは苦笑いでうなずいた。
そんな経緯もあり、母はオタに好意的だ。オタの両親にバイトの口添えをしたのも、ほかでもなく母だった。ボクは、母に感謝した。
県立如月高校、初登校の朝。コンビニ前の桜は満開だ。
鏡に向かって身だしなみを整え、ボクは県立如月高校へ向かって家を出た。駅から校門までのゆるやかな登り坂で、左足に軽い痛みが走ったけれど、新しい靴が足に馴染んでいないのだろう……でも、この痛みも悪くない。羽が生えたように、心が軽い。
───お昼休み、中庭の桜の木の下で待ってるね。ウチはちびだから、すぐにわかるよ。あ、丸いメガネもかけてるし(笑)
二時限目の休み時間。オタのメールに、ボクの鼓動が波打った。授業終わりのチャイムが鳴ると、ボクは中庭に向かって駆け出した。
目標を果たした達成感からだろうか、ボクの中から恐怖心が消えていた。もう、怖いものはなにもない。今なら、笑顔で会えるから。
大きな桜の木の下で、丸いメガネの小さな女の子が手をふっている。ボクは彼女に駆け寄った。
でも、なにを言ってよいのかわからない。彼女の笑みに言葉が詰まる。
「きみのために、お弁当をこしらえました。ウィンナーは、くまさんにしました。いっしょにお弁当が食べたかったの……ずっとね。ウチは一年、待ちました」
はにかみながらも早口で、オタがボクに弁当箱を差し出した。オタは小さいから、差し上げたと言うべきか……。
白いふたに、スヌーピーのイラストが描いてある。うれしいけれど、気まずかった。ボクには渡せるものがなにもない。
「いや……てか……」
困りきったボクに、オタが言う。
「そんなときは、ありがとう……で、いいんじゃない? 小説のお礼で……いいんじゃない?」
「あ、ありがとう……ございます」
卒業証書を受け取る姿勢で、ボクはオタから弁当箱を受け取った。うれしさよりも緊張が勝っていた。ぎこちなく、カクカクとした一礼だった。
「どういたしまして」
オタの細い指が、弁当箱から離れるのを待つかのように、
ひゅう~
ふわっという感じで、それでいて大胆に。桜吹雪がボクのスカートを舞い上げた。春風のいたずらというよりも、これは春風の犯罪だ。
「きゃっ!」
オタが素早く、自分のスカートを押さえてしゃがみ込む。男子にはわかるまい。これぞ、女子の防衛本能。容易く突破できるとは思わぬことだ。
ボクのスカートはというと、裾が胸のあたりでたなびいている。大切な弁当。オタの好意を守った結果だ。
にしても……なんたる気まずさ、なんたる角度。もしも時が戻るなら、数秒前に戻りたい。
ほんの一瞬の出来事だったけれど、風に舞う桜の花びらが、まるでスローモーションのようにボクには見えた。
とはいえ。突風に気を取られて、他者に目撃されることはないだろう。問題は、目の前のオタである。
出会いがパンチラ……これでいいのか?
顔の血管が荒波のように脈打って、ボクは靴の紐に目を落とす。初対面なのに、初対面だから。どうしようもなく、恥ずかしい。
見下ろすボクと、見上げるオタ。ボクの膝小僧の前には、オタの顔。コンサートなら最前面。絶望のふた文字しか浮かばない。せめて、タイツでもはいていれば……。
「……く」
「…………な?」
先陣を切って、沈黙を破ったのがオタである。
「ねぇ~え、空乃カナタさん。てか、葉山貴美子ちゃん。これからもよろしくね。あ、そうだ。貴美子ちゃんだから、きみって呼んでも……い? ウチのことは、オタって呼んでね」
阿川春花と海乃オトメに、オタの要素がまるでない。
しゃがんだ姿勢でボクを見上げて、オタがにっこり微笑んだ。見てないの? 見られたの? その笑顔は、どっちなの?
「…………」
「きみのくまさん、可愛いね」
見られてた。
「…………なんか、ごめん」
ボクは、さらにうつむいた。今すぐにでも、穴があったら入りたい。穴を掘ってでも入りたい。
「だいじょうぶだよ、きみ」
すっと立ち上がると、うつむくボクの背中をさすりながら、オタがやさしい声で慰めた。
「ウチのはね、ねこちゃんだから」
慰めになってない。
その日から、新しい靴を履き慣らすように、ボクらは親友になってゆく……でも、ちょっと待って。この話には続きがあるの。
「まああ、ごきげんよう」
「「だれ?」」
この穏やかな美少女の名は港小夜子。
後のさよちゃん先輩である。

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