後ろの席の飛川さん〝037 帰りはミスドに寄りましょう〟

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───どうして人は死ぬんだろうね?

 引きこもりの孤独の中で、誰よりも死への憧れを抱いたボクである。その問いに後ろめたさを感じたボクは、後ろの壁に飾られた、ひまわりの写真を見つめていた。

「その写真はね。邂逅かいこうのオープン祝いに、あいつの友人がくれたんだ。北海道にある、なよろひまわり畑の写真だよ、壮大な眺めだね」

 名寄なよろの響きに、とある小説が頭に浮かんだ。姿勢を戻してボクは言う。

「名寄市といえば、和寒町わっさむちょうの近くですね」

「へぇ~。キミは地理に詳しいんだね」

 一途いちずさんが目を細める。

「いいえ。そういうわけではなくて、三浦綾子みうらあやこさんの小説の舞台が和寒という町で、その場所を地図で調べたことがあったので……仕道しどうさんのご友人。もしかして、和寒の人なのかな? そう思ったんです。それはそうと、さっきの続きが……」

 一途さんの話が途中のままだ。

「そうだった、そうだった───あの日、雪国の夜。あいつがあたしに訊いたんだ……『堤さん、何か欲しいものはありませんか?』って。『百冊読破のお祝いです』ってね。あたしは、あいつにおねだりした。あんたの書いた小説が読みたい、ってね」

 それが、この本ということか。

「翌朝。あいつと飲んだコーヒーの味は最高だった……」

 そこは、聞こえぬふりしてスルーした。しばらくの沈黙の後……

「これから、命の話をしようじゃないか」

 唐突に、一途さんが切り出した。

「は?」

「キミには知ってもらいたい」

「え?」

 ヨシ! って感じで、一途さんがカウンターの天板をパンと叩いた。その拍子に、グラスの氷がカラリと鳴った。それを合図にするかのように、語り始める一途さん。彼女の表情は穏やかだ。

佐久間千鶴さくまちづるという女性がいた。彼女は、仕道翼の従姉妹だよ。あいつより、一回り年上だと聞いている。幼少期から、彼女を慕っていたとも聞いている。あいつに読書の喜び教えたのは、他でもなく彼女だよ。優しくて穏やかで、繊細で控えめで、頭脳明晰で美人とくれば、あたしと比べりゃ、月とすっぽん。黄瀬君も、そう思うだろ?」

 ぐふっ……返答に困る質問だ。

「……」

 たゆたうボクの顔を覗き込む、一途さんの大きな瞳が糸のようにカタチを変えた。花音かのんさんの顔立ちが美の黄金比とするのなら、一途さんの顔立ちは愛らしさの黄金比。でもやっぱり、返事に困る。

「あいつが中学の頃、キミくらいの年の頃。佐久間千鶴は、とある猫ブログに熱狂した。女のあたしからすれば、普通に恋心だと察しがつく。世の中は広いんだ、文章に惚れる女だってそりゃいるさ。でも、あいつには気づかない。女心をあいつは知らない。まだ子どもだ、仕方ない。それでも、あいつは喜んだ。佐久間千鶴が笑顔になるなら、ブロガーだろうが、ボーイフレンドだろうが、彼氏だろうが、薬だろうが。この際、なんであろうといとわない」

 一途さん、薬物はダメですよ。

「その時、佐久間千鶴の余命宣告は過ぎていた。だからあいつは、なんにでもすがった。たとえそれが、無名のブログだとしてもだよ。そして、四年の月日が過ぎ去った。それでも、彼女は生きていた。それで確信したそうだ。黄瀬君は、なんだと思う?」

 余命宣告の響きが、ボクに大きくのしかかる。行間を読み考察を繰り返し、ボクは慎重に言葉を選んだ。

「恋心……ですか?」

「違う」

 すみません……。

「どうして彼女が生きていられるのか? その理由は分からない。科学的根拠なんてどこにもない。主治医でさえもが首をひねった。今、流行のエビデンス? そんなのない。あいつの前にあるのは結果だけ。佐久間千鶴が生きているという事実だけだ。あいつには、それだけで十分だった。だから信じた───人を生かす文章の存在を。それが実在することを。どこかの誰かの血の通った文章が、たとえそれが無意識であったにせよ、どこかの誰かに生きる力を与えることを。佐久間千鶴は、強く生きることを望んだんだ。それはもう、黄瀬きせ君だって体験済みだろ? その理由は対極だけれど。キミは、死に憧れを抱いた人だから」

 言葉の刃がボクの喉笛を掻き切った。い、息が……できない。冷たい汗が背中を伝う。一途さんは、ボクから視線を外さない。淀みなき目でボクを見る。でも、その瞳の奥底は、瀬戸の水面みなものように穏やかだ。

「あたしは、キミを責めているわけじゃないんだよ───もう死にたい。そんなことは誰しもが思うことだ、罪はない。キミは、少しだけ度が過ぎただけだ、恥じゃない。その絶望の淵で、キミは希望と巡り会った。カブトムシのブログと出会い、テントウムシ……つまり、月読つくよの言葉がキミを救った。素晴らしいことだと、あたしは思う。あるんだよ、人を生かす言葉ってのがね。だから、あいつは決めたんだ。人を生かす、血の通った文章を書く人材を、世に送り出す仕事をしたいって……そんな彼らを差し置いて、あいつが自分の作品を世に出そうと思うかね?」

 ボクの心臓がぐらりと揺れる。

「仕道さんは、出版のお仕事ですか?」

「そうだった」

「そうだった?」

「それを訊くのは野暮ってもんだ。まぁ……大人の世界には、いろいろとあるものさ。それについては割愛するよ。あいつはね、編集者を辞めてからフリーライターに転向した。あいつは知識の塊だから、書く仕事は朝飯前だ。そんな時だよ、こっちのタウン誌から案件があったのは。ご当地ブロガーの特集記事だ。ネットでリサーチ中に見つけたんだよ、カブトムシのブログをね。そしたら、あいつが興奮しちまって『一途ちゃん、僕は讃岐うどんを食べてきます。お土産を楽しみにしていてね』って……そのまま帰ってこなかった」

「帰ってこないって?」

 神隠し?

「一ヶ月もだよ。待てど暮らせど帰ってこない。そりゃ、連絡くらいは取り合うけれど、帰ってくる気配がない。ネットがあれば、ライターの仕事はどこでもできる。あたしゃ、心配で心配で。仕事を休んで、東京から連れ戻しに行ったんだ。そしたらさ、黄瀬君。あいつ、どうしてたと思う?」

 別の女と暮らしていた……とは言えない。

「公園で、おかっぱ頭のガキと遊んでた」

 ん? それは? ボクの中で、見過ごせない問題が発生した。ガキの話は、その後だ。

「どうして、仕道さんの居場所が分かったんですか?」

 ポッケから、スマホを取り出す一途さん。

「こいつのGPS機能に決まってるだろ? 普通、彼氏のスマホに仕込むだろ? 位置情報アプリだよ。もしかして、黄瀬君───知らないの?」

 それって、犯罪だとボクは思う。

「……」

 一途さんの表情は変わらない。都会じゃそれは、自明じめい? ボクは自分のスマホをそっと隠した。

「そのガキは、あいつをバッサーって呼んで懐いていた。そいつが、五歳の月読だよ」

 そいつは、面倒なことになりそうだ。

「あいつ、あたしを見てなんて言ったと思うかい? 『あれ、一途ちゃん? どうしたの?』だって。あたしゃ、腹が立ってね。あいつにグーパンチを食らわせた。すると、月読があたしの膝に蹴りを入れたんだ。甲高い声で『ライダーぁぁぁ~キッーク!』って叫んでた」

 飛川ひかわさんは、昔からそのキャラか……

「そしたらさ、あたしの膝からパキって嫌な音がした。骨が折れたかと思ったよ。そん時だ、飄々ひょうひょうとした顔で天パの少年が現れた。そして、あたしに言うんだよ。『なんすか? 喧嘩っすか? うちのツクヨに問題でもあるっすか? 自分、女は殴らないって決めてるんすよねぇ……困ったなぁ。ねぇ、お姉さん。一発、俺のほっぺを殴っとく?』ってね。あたしゃ思ったね。これが、田舎のリベンジャーズかって……それが、ブロガーのカブトムシ。飛川三縁ひかわさよりとの出会いだった。キミと同じ年だったかな。結局のところ、あいつが讃岐に住むって言い出して、あたしもこっちに移り住んだってわけなのさ。さて、ここからはキミのターンだ。キミからの質問を受け付けよう」

 いくらなんでも、情報量が多すぎだ。てか、主題が大きく逸れている。

「その後、佐久間さんは……」

 一途さんの顔から笑みが消えた。

「気持ちが抑えきれなくなったんだろうね。佐久間千鶴はブロガーにメールした。もちろん、ひとりの読者としてだよ。その夜に、返信があったと喜んでいたそうだ。それから、彼との交流が始まったらしい。そのやり取りの、詳しいことは知らないよ……その十ヶ月後、佐久間千鶴は夭折ようせつした。最後は、穏やかに眠るような顔だったそうだ。息を引き取った彼女の手にはスマホがあった。その画面には……言わずとも分かるだろ?」

 きっと、彼のブログであろう。それだとて、そこまで見ず知らずの他人を愛せるものなのか? 心のどこかで信じられないボクがいた。これを語る一途さんだって、それを目撃したわけではないのだから。

「思い出したように、あいつがあたしに訊くんだよ。『濃く長いまつ毛が、涙をたっぷり吸って濡れていた。それは幸せの涙だったのかな?』ってね。『一途ちゃんは、どう思う』って。その度に、あたしゃ即答していたよ。幸せだったに決まってる、ってね。ねぇ、黄瀬君。佐久間千鶴は死に際で、何をしたと思うかい?」

「ブロガーに会いに行った……ですか?」

 たぶん、これが正解だ。

「それは無理だよ。入院中の彼女には、そんな体力はすでにない。数時間だけの外出許可をもらって、買い物へ出掛けたんだ。ブロガーへの贈り物だってね。外出時は、いつものオーバーオールにパーカー姿だったそうだ。彼女は……」

 ん? 桃畑、BBQ、肉を連れ去る飛川さん……この話、トビちゃんと同じじゃないか?

「ちょ、ちょ、ちょ。一途さん、話をさえぎってすみません。そのブロガーは作家になっていませんか? 先日、中原君という同級生に借りた小説と、内容が酷似しているものですから……菊池俊太きくちしゅんたという名前の作家です。その本は、邂逅にもありました。飛川先生の本が並んだ棚です」

 ボクの推測が正しければ、これぞまさしく、ミラクルだ。

「こりゃ参ったね……この坊や、あり得ないことを口にした。なんでもかんでも繋がっちまう……どんだけの確率だよ……」

 額に手を当て塞ぎ込んだ一途さんは、軽くパニックを起こしているようだ。顔を伏せたまま、一途さんが話を続けた。

「そうだよ。彼が、そのブロガーだ。あの小説の内容は、彼の実体験を元に書かれている。天国のファンタジー要素以外は、ほぼ事実。とも言えるだろう。彼は未だに独身を貫いているよ……まぁ、それはいい」

 いいんですか?

 ムクっと、一途さんが顔を上げた。その表情は、何かを吹っ切ったような、すっきりとした顔つきだ。

「たとえ偶然だったとしても、三つも、四つも重なれば、まごうことなき奇跡だよ。キミの口から出た言葉は、あたしの常識の範疇はんちゅうを超えている。誰がなんと言おうとも、あたしゃしのぶの言葉を信じるよ───もう決めた」

 広瀬さん、広瀬さん。さっきから、広瀬忍……

「広瀬さんが、何か?」

「そうだよ、忍だ。黄瀬君がここに招かれたのは、忍からの要望があったからだ。強い強い要望だ。この件で、広瀬忍は飛川三縁と対峙たいじした。あの無口な子がだよ、あたしらを岡山弁でまくし立てたんだ。『おみゃーらは、でーれー黄瀬を見くびってるんじゃ! あいつは将来、三縁を守る男になるんじゃ! こんだけ言ってもダメならば、あいつの負担の半分を、私が背負ってやるからのう!』ってね。あんなにキレイな顔してさ、もはや、ジャンプのヒーローさ」

 熱い気持ちは伝わるけれど、酒でも飲んだか? 広瀬さん。

「それに最後まであらがったのが、他でもない。飛川君だ」

 今のそれ、今日一番のショックです。

「キミが背負うパーカーの文字には、とても重い意味がある。命の重さがそこにある。それを背負えるのは、飛川君と花音だけだった」

「それは、どういうことですか?」

 寝耳に水とはこのことだけれど、一途さんの言葉の節々に感じる違和感は……ボクは、とある仮説をかき消した。

「パーカーに印刷された、放課後クラブの文字は、ゆきが書いた文字だった。今はへんてこな格好しているけれど……あの子はね、お金持ちのお嬢さんだ。だから、ひと通りの習い事は習得済みだ。英語はペラペラ、琴もピアノも自在に弾ける。書道は二段の腕前さ。反して、キミが背負う文字は、仕道翼が飛川君に贈った文字なんだ。あいつが編集者としての想いを込めた、魂の文字なのさ。キミのような、ぽっと出が、易々と背負える文字じゃない」

 それはそうです。確かにそうです。ごめんさい、ごめんなさい、ごめんなさい……ボクは、どうしてよいのか分からない。頭を抱えたボクの両肩に、一途さんが両手を添えた。

「ついさっきまで、あたしも飛川君と同意だった。でもね、短い時間ではあるけれど、キミとの対話で考えが変わった。あたしも忍に一票を投じるよ。あたしからも、未来の飛川三縁をよろしく頼む。飛川三縁は、あいつが探し求めた逸材だ」

 ボクの肩をポンポンと叩いて、一途さんが微笑んだ。その瞳の優しさは、ボクが明光中学を目指すと宣言した日の、ママの眼差しと似ている気がした。

「キミがここへ来たということは、飛川君がキミを認めたということだ。キミは、胸を張ってりゃいいんだよ。将来、立派な編集者になってくれ」

 一途さんの目が、少し潤んでいた。そしてまた、カウンターの天板を、ポンと叩いた一途さん。何かを思いついたようだ。

「ねぇ、黄瀬殿。あたしと同盟を結ぼうじゃないか。邂逅への出入りは自由だよ。すべての本を読み終えたら、キミに見える飛川三縁を教えてほしい。無期限の催促なしでどうだろう? キミが了承したなら、グータッチで返事をおくれ」

「喜んで」

 一途さんの差し出す拳に、ボクは拳をコツンと当てた。その途端、表で甲高い声が轟いた。

「頼もう!」

 道場破りか?

 声の主は超絶ちゃん……もとい、飛川さん。

「入んな」

 一途さんの返事に、勢いよくドアを開いた飛川さん。右手にボクのパーカーを握っている。

「一途の姉御。今日は特別な日だから、きいちゃんを頂くぜ。サヨちゃんのいる、にゃんにゃん公園に行かねばならぬ」

 にゃんにゃん公園とは、飛川さんちの近所にある、海が見渡せる公園だ。おもむろに、ボクにパーカーを差し出す飛川さん。

「さぁ、これを羽織りなされ。忍がサヨちゃんを見張っているでござるよ」

 飛川さんの口調は、武士というより忍たまだ。

「───だな」

 そう言って、一途さんがケラケラ笑う。

「表にチャリを用意してるでござる。ばあちゃんの電動だから、ここから五分で行けるでござるよ。さぁさぁ、黄瀬殿。拙者は後で参るでござる。一途の姉御、それではアディオス!」

 そう言うと、ボクの手を引く飛川さん。

「頑張れ、少年!」

 ボクに向かって、一途さんが小さく手を振った。

 飛川さんに引きずられるように外に出ると、すっかり雨が上がって青い空が広がっていた。太陽の光が眩しくて、目を細めるボクである。自転車に乗ろうとするボクを一途さんが呼び止めた。

「黄瀬君、これを持ってきな。この本で、すべてが繋がるはずだ。これは飛川君が、あたしのために書いた小説だ。それと、電動だからって、スピードを出し過ぎちゃダメだよ。怪我でもしたら大変だ、本日もご安全に」

「ありがとうございます」

 一途さんから本を受け取ると、ボクはにゃんにゃん公園向かってペダルを踏んだ。ほどなくして公園が見えた。公園の木の下で、広瀬さんが立っている。けれど、飛川さんのようにボクに向かって手を振ってはくれない。天体観測者のように、無言でボクを見つめるだけだ。

「今はごめん。話は後で───」

「そ」

 愛想のなさも、いつものとおり。彼女と話したいのは山々だけれど、ボクは飛川先生に向かって駆けていた。黒いパーカーを着た先生の背中は寂しげで、いつもと違う雰囲気だった。ボクの気配に気づいた先生が、海を見つめたままボクに言う。

「黄瀬君かい?」

「はい。今日、邂逅へ行ってきました。一途さんともお話をしました」

「今日か……」

 先生がため息を漏らした。その場を取り繕うようにボクは言う。

「これ、ありがとうございます」

 ボクの手にあるのは、先生の会員証だ。それを無言で受け取ると、先生は代わりにパーカーのポッケの中から、二本の麩菓子ふがしを取り出した。

「うまいぞ、黄瀬君。麩菓子はアニキの好物だ」

 邂逅での違和感が、確信へと近づいてゆく……。

 ボクらは麩菓子の封を切り、ふたりで並んでそれを食べた……甘い。ボクは黙して海を眺めた。先生からの言葉を待つために。

「一途さん。今日がなんの日なのか、黄瀬君に教えてくれた?」

 先生がボクに問う。

「それは、教えてくれませんでした」

「そっか。佐久間千鶴さんの話は?」

「聞きました」

「キミが背負う、パーカーの文字の意味は?」

「聞きました」

「一途さんから、本を受け取らなかった?」

「あ、この本を預かりました。邂逅……先生の作品ですよね?」

 ボクが本を手渡すと、ポツリと先生がつぶやいた。

「あいつらさえ、いなければ……」

「え?」

 それは、先生の口から出るような言葉じゃない。固唾かたずを飲んで次を待つ。

「いや、なんでもない」

 刹那に口を濁すと、先生は別の問いを投げかけた。

「キミは邂逅で、どの本を読んだのかな?」

「まだ見ぬキミへ……です」

 先生の表情がこわばった。

「一途さんが紹介したの?」

「いえ。ナナシの名前が先生の無名むみょうと重なって、気づいたら読んでいました」

「……ったく……忍には敵わんな」

 先生の目が海に浮かぶ船を追っている。海の上で空が赤く燃えていた。

「アニキと初めて会ったのは、この公園の……この場所だ」

 続けて先生がボクに問う。それは、強き人からの言葉だった。

「〝生〟の文字には、百五十以上も読み方があるそうだ。だけど〝死〟の読み方はひとつだけ。キミに、その意味が分かるかい?」

 その言葉が刃のように、ボクの胸に突き刺さる。何よりも重い問いだった───これからきっと、一途さんが言えなかった真実を、先生がボクに告げるのだ。それは邂逅で、ボクが何度も消した想像だ。仕道翼は、この世にいない……。

「今日は、アニキの命日だ───」

 瀬戸の波が止まったようにボクには見えた。それどころか、何もかもが止まって見えた。すべての音が聞こえない。ボクの想像は的中だった。けれど、ボクは心のどこかでそれを拒んだ。仕道翼と会いたかった。会って本の話を語りたかった。一途さんの笑顔が、頭にこびり付いて離れない。心の中で泣きながら、彼女は想い出を語ってくれたのだ。一途さんも強き人だった。

「なぁ、黄瀬君。生きるってのは、選択の連続だ。キミは将来、どんな仕事を選んでも構わない。目標なんてのは、変えてもいいんだ。何をしたっていいんだよ。自分が決めた道だけを、キミには淀みなく歩んでほしい。何を聞いたか知らないが、忍のことは気にすんな。今の俺から言えるのは、それだけだ。キミには、余計な負担をかけたようだ。重い話ですまなかった。そこのベンチにパーカーを置いて帰ってくれないか?」

 小説家、飛川三縁に対してボクは問う。

「飛川先生。もしも、ボクが編集者になれたなら、ボクが先生の担当者になってもいいですか? ボクが先生を守ってもいいですか? それと、これはボクのパーカーです。絶対に返しません。ボクは一途さんと同盟を結びました。大切な約束があるんです」

「……」

 先生は何も言わない。それは、先生の優しさだ。ゆっくりと、夕日が海に沈んでゆく……。

「黄瀬君。もう、夕暮れだ。中学生は帰宅の時間だよ。さっきから、あっちであいつらが心配している。もう少し、俺はアニキと話があるから、あいつらの所へ行ってやれ」

 そう言うと、先生がボクの背中をポンと叩いた。そこには、放課後クラブの文字がある。

「今日は、ありがとうございました」

 ボクの声に、先生が何かを思い出したようだ。

「あっ、そうだ……黄瀬君。数日前から、ツクヨが心配していたぞ。きいちゃんが、風邪をひいているってね。でも、その声は風邪じゃない。声変わりだな。キミは少し見ないうちに背も伸びた。もう少しすれば、俺の背を抜くだろう。今度会うときは、男同士の話をしよう。エロい話もちょっぴりな」

「はい!」

 ボクが返事をすると、先生の表情がいつもの笑顔に戻っていた。先生が、ボクに向かって拳を伸ばす、コツン。今日、三度目のグータッチ。拳を合わせたボクと先生との間を、冷たい風が吹き抜けた。

「アニキかな?」

 そう言うと、先生はボクに背中を向けた。そして、振り返ることはしなかった。ボクに見えるのは、先生の背中の文字だけだ───

 今日の日の出来事を、ボクは一生忘れない。ボクの知らない所で暗躍してくれた、飛広コンビにキチンとお礼をしなければ。飛川さんが、ボクに向かって手を振っている。ボクはふたりに向かって駆け出した。

「きいちゃん、大丈夫?」

 飛川さんが、心配げな顔で問いかける。

「大丈夫ですよ、飛川さん」

 笑ってボクは返事をする。

「今もやっぱり、変な声……」

 飛川さんが、いぶかしげな顔でボクを見る。

「これは、声変わりですからね。病気じゃないです。先生が、そう言ってました」

「……」

 ボクの喉元に、無言で人差し指を突き当てた広瀬さん……ちょっとした恐怖が走るのは、その目がまったく笑っていないからだ。彼女の指先が、グイッとボクの喉元にめり込んだ。い、息が苦しい……グリグリと指先を動かしながら、広瀬さんの口角が上がる。

「……喉仏のどぼとけ

 ボクはムッとしたけれど、広瀬さんがいなければ、今日という日はなかっただろう。だから黙して、ヘラヘラ笑う。言っとくけど、今日だけなっ!

「今日は、ふたりにお世話になったので、帰りにご馳走したいと思うのですが」

 ボクがふたりに提案すると

「「ご馳走?」」

 ざわざわしているふたりの姿が、まるで食事前の犬のようだ。「お手」と言えばやるかもしれない。

「ねぇ、きいちゃん。どこ、どこ?」

 目が血走っている飛川さん。その隣で、瞳をギラつかせる広瀬さん。彼女たち向かって、ボクは言う───

「決まってるじゃないですか、ミスドエフスキーですよ」

 ふたりのお腹が、グーっと鳴った。

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