005 猫のおじさん
本のおじさんが読書台を使い始めてから、一週間ほどが経過した。早いもので、五月も下旬。月末の給料日まで、もう少し。
「ねぇ~え、きみぃ。桜の木が、ネイルチェンジしているよ」
コンビニ前の桜の木が、枝先を桜色から新緑に変えて、初夏の息吹であふれている。それを、ネイルチェンジと表現した、オタの感性がうらやましい。
そんなオタの読書台が、本のおじさんを覚醒させた───
「すごいよ、オタ。読書台に気づいたオタは偉い!」
おじさんの読解速度が日毎に速くなってゆく。少年マンガの主人公が、新たなアイテムを手にしたようだ。
「でしょ、でしょ!」
オタの口角がニーっと上がると、丸いメガネもいっしょに動く……ん?
オタの笑顔はひまわりのようで、とてもキュートで可愛くて、でも……『ん?』なのである。
オタがメガネを外したら……アニメのキャラだっけ? アイドルだっけ? それとも、ネット配信者のだれかだっけ……? 昔から馴染みがあって、見覚えある笑顔だけれど、だれのことだか思い出せない。
ボクが既視感を感じていると、オタがボクの袖を引っぱった。
「あ、おじさんが本を閉じた」
「ほんとだ」
本のおじさんが、人間失格を読み終えたようだ。一週間で、太宰治を読み終えたおじさんも偉い。
読了の余韻に浸っているのだろう。本の表紙を眺めながら、冷めたコーヒーに手を伸ばす。その仕草が微笑ましい。
きっと、駆け出しのアイドルを応援する人たちも、こんな気持ちで推しを見守っているのだろう。オタの気持ちが、今ならわかる。おじさんの日々の変化が、ボクをわくわくさせてしまうのだ。
というわけで、今日もおじさんは進歩しましたとさ。めでたし、めでたし……とはならない。本番はこれからだ。
赤いリュックのファスナーを開くと、おじさんが新たな本を取り出した。
「ねぇ~え、きみぃ。これからウチは、お水の補給に行っちゃいますよ」
今や、本のおじさんの専門家。阿川博士が動き出す。
「「よろしくお願いしまーす」」
足取りも軽やかに、おじさんの席へと向かうオタ。読書台を介して、ふたりの距離が接近し、色恋沙汰へと発展した……わけでもない。
オタの目的は別にある。それとなく……そして、スマートに。次の小説の題名を、オタは探りに行ったのだ。オタにとってのおじさんは、恋愛対象ではなくて、観察対象なのだから。
「ホット追加で~す」
オーダーを通すオタの声は、いわゆるひとつのアニメ声だ。ともすれば男子に媚びるような、あざとさすら感じさせる響きだけれど、オタの容姿と相まって、その声音に嫌みがない。
「「よろしくお願いしまーす」」
きっと、自分へのご褒美なのだろう。金閣寺を読み終えた日も、おじさんは二杯目のコーヒーを注文していた。
「ハルカちゃん。今日は、こっちだ」
おばあちゃんが、オタに大きいサイズのカップを渡す。心ばかりのお祝いだ。
「ありがとう、琴音ちゃん」
「面白いことを言うね。ハルカちゃんが、お礼することじゃないだろ?」
「だって、おじさんへの心配りでしょ? だったら、おじさんの代わりに、ありがとうで……いいんじゃない?」
大きなカップを手に持って、オタのニヤニヤが止まらない。これから、子猫にちゅーるをあげましょう……って、顔である。
「ところで、オタ。次の本は、なんだった?」
「えっと、川端さん」
まるで近所のおじさんやおばさんの話でもするように、オタは作家の名前に『さん』をつけて呼んでいる。ちなみに、村上春樹だけは例外だ。
「文豪の?」
「三島さんの、お師匠さん」
「題名は?」
「雪国でした」
金閣寺を経て人間失格。その長いトンネルを抜けると、季節外れの雪国であった───。
金閣寺に挫折したボクだけど、雪国は読んでいる。流れるような文体で、情景描写が美しい。その文体に近しいのが、港小夜子の文体だ。流れるような切れ味で、読者の心理を切り刻む。彼女の狂気は芸術だ。
創作小説サイト『ノベルン』で、彼女は次世代四天王候補のひとりである。そして、長らく封印されていた『文王』の称号が、近々、復活するとの噂もある。となれば……ある日、突然。ノベルンの勢力図が塗り替えられる日も近いのだろう。
それに向けて、新作を温存しているボクである。ボクと同じで、だれもが投稿タイミングを見計らっているらしく、転換期に入ったノベルンは、嵐の前の静けさだ。
「おばあちゃん……」
「おやおや、タカシ君じゃないか」
先に嵐が訪れたのは、喫茶ひまわりの方だった。
タカシ君は、近所のうどん店の息子である。赤ちゃんのころから、おばあちゃんと顔馴染みで、ときどき店に顔を出す。これもまた、喫茶ひまわりの日常なのだ。
「なんだか、顔色が優れないね。外は暑いからねぇ、冷たいジュースでも飲んでくかい?」
「いらない……」
この春、ぴかぴかの小学一年生になった男の子が、しょんぼりと立っている。
「親と喧嘩でもしたのかい?」
「ちがうよ……」
おばあちゃんの問いかけに、激しく首を横に振るタカシ君。
「こうえんで、ないてたの。かあちゃんが、『もとのところへもどしてきなさい』って……これ」
タカシ君が世界の終わりのような顔つきで、おばあちゃんに段ボール箱を差し出した。
「どぉ~れ、見せてごらん」
おばあちゃんが箱を開くと、眉間のシワが深くなる。
「…………よわったねぇ」
この世の終わりという顔つきだ。
「どれ、どれぇ~」
続いて、オタが箱の中をのぞき込む。世界の終わりと、この世の終わり。オタはどんな顔を見せるのか?
「あ、神さまだっ!」
予想に反して、天国だった。
「ねぇ~え、きみぃ。白い子猫だよ」
宝物を見つけたように、ボクを見上げてオタが言う。満天の夜空のように、オタの大きな黒目が輝いて、ふにゃりと一気に細くなる。
きゃわいい……じゃん。
オタに罪はないけれど、この笑顔は罪深い。世のメガネっ子好きにはたまらんだろうが、それはそれ、これはこれ。
「オタ、笑ってる場合じゃないよ。この子、捨て猫じゃん!」
箱の中で、子猫と呼ぶには幼すぎる命が、「にゃ、にゃ」っと、小さな声で鳴いている。可哀想に……まだ、目さえも開いていない。この子を捨てた人間の神経を疑ってしまう……。控えめに言っても、外道の所業だ。
「ねぇ~え。ここで飼っちゃ、いけないの?」
コトンと首を傾げてオタが訊く。
「ダメに決まってるでしょ? ここ、喫茶店だよ、飲食店だから。それに、乳飲み子を育てるのは大変だよ。別の方法を考えないと……」
ボクだって猫が好きだし、子猫は可愛い。でも、それとこれとは話が違う、手に負えない。
「にゃぁ~!」
小さく、にゃ、にゃ……と鳴いてた、子猫の声が大きくなった。小さな口を大きく広げて、恋しい母猫を呼ぶかのように。
「ねぇ~え。子猫の扱い方、知りませんかぁ~?」
常連さんに、オタが助けを求めている。
「タカシ君、ここでは……ね。お姉ちゃんといっしょに、外で考えよう。おばあちゃん、ちょと出るよ」
ボクはタカシ君の肩に手を添えた。
「タカシ君を頼んだよ、あたしも後で行くからね」
「うん」
子猫と言えども、店の中では具合が悪い。ボクはタカシ君を連れて店を出た。
「きみちゃん…………」
タカシ君とは、お祭りに行ったり、花火大会を見たり、お買い物をしたりした仲なのだ。タカシ君が赤ちゃんのときには抱っこもした。そんなボクを、タカシ君は『きみちゃん』と呼んでいる。
そのタカシ君が、今にも泣きそうな顔でボクを見上げる。
「だいじょうぶだよ、なんとかなるよ」
タカシ君をなだめていると、背中にオタの気配を感じた。
「どうだった?」
「ダメでした……」
常連さんに、いい返事がもらえなかったのだろう。オタが途方に暮れている。
ボクもスマホから猫シェルターを調べていたが、どこも手がいっぱいのようである。そして、保健所も……できることなら、それは避けたい。
「ねぇ~え、タカシ君。その箱、ウチに貸してくれる?」
「うん」
「ありがと」
オタが段ボールを抱えて、しゃがみ込む。
「おねえちゃん……こうえんにかえすの?」
オタに段ボール箱を渡してみたものの、タカシ君は不安げだ。その間にも、ボクは子猫の引受先をネットで探す。
「返さないよぉ……」
そのときすでに、オタは次の策を練っていた。片っ端から、知人の名前を口ずさむ。
「綾野ちゃん、木野っち、辺見さん、山田先生……あいつはダメだ……ブツブツブツ……」
オタの瞳がうつろになって、子猫を凝視したまま動かない。
「オタ? オータ? 阿川春花ちゃーん!」
オタ、こっちに戻ってこい!
「ちょっと待ってぇ~、浮かんでるの」
浮かんでるのか……。オタの頭の中では、息を吹きかけたタンポポの綿毛のように、知人の名前が広がって、ふわふわと浮かんでいるのだろう。
「いろはさん、横綱、さよちゃん先輩……あ! ヨミセン君、みぃつけた」
オタがボクを見上げて、にこりと笑う。オタの綿毛の一本が、道しるべを見つけたようだ。
「ヨミセン君なら、引き取ってくれるかも?」
『ヨミセン君』とは、文芸部所属の有友涼平のことである。小説は書かず、本ばかりを読んでいる。いわゆる、読むのが専門の『読み専君』だ。詳細は割愛するけど、コピー本制作の一件で、オタと急接近した男子でもある。
一応、確認で訊いてみる。
「文芸部の有友涼平君?」
有友涼平は坊主頭のゴリラである。筋骨隆々でムキムキで、ラガーマンのような体を持っている。特筆すべきは、部室前の廊下でスクワットをしながら、読書に勤しんでいることである。
「そうそう! ウチと同じクラスの有友涼平君。ゴリラの───」
ボクもゴリゴリのゴリラだと思ったけれど、オタは口に出して言うんだな……。
「そういうの、有友君が傷つくよ?」
「いいの。ウチと彼とは特別だから」
そっか、そっか、特別かぁ~。今、ボクが傷ついた。
「でもどうして、有友君なの?」
「だって、去年。ヨミセン君ちの猫ちゃんが死んじゃって、ママと保護猫を探してるって……コピー本を作るときに話してくれたの。ねぇ~え、きみぃ、連絡して。電話番号、知ってるでしょ?」
「わかった、やってみる」
そう……ボクは有友涼平の連絡先を知っている。なぜならば、今さらだけれど……ボクとオタは、文芸部の一員なのだ。さよちゃん先輩にお願いされて、喫茶ひまわりの休店日。水曜日だけ、ボクらは文芸部員として活動している。そして、オタが電話できない事情も知っていた。
「ねぇ~え、きみぃ~」
子猫のにゃーにゃーと、オタのねぇ~ねぇ~がちょっとうるさい。
「はい、はい。今から電話するから、オタは少し落ち着こう」
「ウチは落ち着けば、いいんだね?」
「そうそう」
エプロンのポッケから、ボクはスマホを取り出した。とはいえ、男子への連絡は緊張する。緊張している場合じゃないけれど……。
「もしもし、有友涼平君のスマホですか? 文芸部の葉山貴美子です……おひさし……ええ、一年の。急に連絡してごめんなさい。実は……子猫が……かくかくしかじか……」
その旨を有友涼平に伝えると、明日まで待ってほしいとの返事だった。今は部活中なのだから、それは当然の回答だ。最悪に備えて、ボクはプランBを模索する……。
そのうちにも、子猫の鳴き声が勢いを増している。ボクは子猫の動画を撮って、有友涼平のスマホに送信した。すると、すぐに帰って母親に見せると言う。脈ありげな返答だった。
「ねぇ~え、きみぃ。どんな感じ?」
「これから、お母さんと交渉するらしいよ」
「よかったねぇ~、子猫ちゃん……ヨミセン君は、ゴリラだけど、やさしいよぉ~」
オタは子猫と、会話でもしているようだ。
「きみこちゃん……ゴリラって? このこを、ゴリラにわたすの?」
子猫を見つめて、タカシ君が怯えている。
「だいじょうぶよ、タカシ君。有友君は、ゴリラじゃないから。タカシ君と同じ人間だから」
タカシ君をなだめていると、おばあちゃんが店から出てきた。
「で、どうなってんだい? タカシ君、泣いてないかい?」
タカシ君が心配で、おばあちゃんが出てきたのは理解できる。でも、隣にいるおじさんは?
「ど~れ、お邪魔するよ」
おじさんがオタの隣に腰を下ろすと、ひょいと子猫を慣れた手つきで持ち上げて、お腹の辺りをじっと見ている。もしかして、本のおじさんの正体は獣医さん……とか?
「ねぇ~え。ねぇ~、ってばぁ」
こともあろうか、オタがおじさんの上着の襟を引っ張っている……もう一度書こう、オタがおじさんの上着の襟を引っ張った!
おじさんの頭が、左右に大きく揺れている。唐突に、大人の襟を引っ張るだなんて……それ、やれる?
「それは失礼だよ、オタ」
オタに手を伸ばしかけると、おばあちゃんが目で止めた。この場は、おじさんに任せろということか?
「その子、病気なの?」
「腹へってるだけ」
「死なない?」
「わからんな」
おじさんの返事に、オタの顔が引きつった。その場を繕うようにオタが言う。
「明日になったら、友だちが引き取ってくれるの。ヨミセン君なら、だいじょうぶなの」
オタの中では、すでに決定事項になっている。有友涼平からの返事が怖い。
「今夜は、ウチときみとでお世話をするの……ねっ」
藁にもすがるような面持ちで、オタがボクを見上げている。
「うぅ……まぁ、そんな感じで」
オタを止めても無駄だろう。ここはボクの親友、阿川春花の一大事。ボクは徹夜を覚悟した。だが───
「ダメだ」
おじさんは、バッサリとオタの言葉を切り捨てた。
「どうして、ダメなの?」
オタを諭すように、おじさんは言う。
「今夜、この子は死ぬかもしれない。もし、そんなことにでもなったら、キミは自分が許せなくなるだろ? 誰でも死ぬ。必ず死ぬ。最後は死ぬ」
ちょ、ちょ、ちょ、ちょ、ちょ。
おじさんの過去に、なにがあったか知らないけれど、その言葉は重いって。『死ぬ』の言葉の連続に、ボクを見上げるタカシ君。そりゃ、不安にもなるだろう。
なおも、おじさんは話を続ける。
「人も動物も同じだよ。今日死ぬかもしれないし、明日かもしれない。でも、これから二十年先まで生きるかもしれない。それは、だれにもわからない。もし、神さまがいたとしても、神の意志なんてのは気まぐれだ。時には、残酷なことだってする。それでも、この子を看取る覚悟があるのかな?」
「それは……」
おじさんからの問いかけに、言葉に詰まるオタである。
「だったら、俺が引き受けよう。この子は生きようとしてる。俺には寄り添うことしかできやしない。でも、できることはやってみる。ここは、経験者に任せてよ」
経験者、その響きが頼もしい。オタの瞳に光が宿る。
「もしかして、獣医さんですか?」
ボクの問いに、
「ただの現場作業員だよ。地方から来た、出稼ぎの田舎もんだ」
おじさんが顔の前で手を振った。
「今からやるべきことは多くある。ミルクもあげるし、体温調節もしないといけない。この子にとって、環境が大きく変わった今は、デリーケートな時期なんだ。ある意味で、危険な時期。最悪も視野に入れた、割り切った対処が必要だ。わかるよね?」
首に巻いていたタオルで、おじさんは子猫の体をやさしく包んだ。
「うん、わかる……」
自分の言動を反省しているのだろう。オタは、蚊の鳴くような声である。
「よし、いい子だ。ただし、預かるのは一夜限り。その間に、キミは話をまとめてくれないか? きちんと、友だちのご両親の了解も得るんだよ───ねぇ、奥さん。そうですよね?」
「そうだね、それが正解だ」
うんうんと、おばあちゃんがうなずきながら、オタの肩に両手をそえた。
「俺はこれから病院だ。鳴き声は元気だけれど、疾患を持っているかもしれないからね。そういう子、割と多いんだ。それと、やらないとは思うけど、ネットに投稿しちゃいけないよ。面倒なことになるかもしれない。なにもしないくせに、横から口ばかり出してくる。ややこしいんだよ、捨て猫問題はね。では、よろしいか?」
「うん」
オタがコクリとうなずいた。
「じゃ、約束だ」
おじさんがオタに向かって、ゴツゴツとした拳を突き出した。
「ん?」
それに、オタが戸惑っている。戸惑いながらも小さな手のひらで、おじさんの拳を包むオタ。
「これで……い?」
たぶん、そういうことじゃないと思う。
「うーん? それは違うかな。グータッチだよ、グータッチ」
「グータッ……チ?」
オタが、コトンと首を傾けた。
「そう、拳と拳を合わせんの。相棒とやってたんだ。指切りみたいなもんかな?」
「わかった。ハルカ、がんばる!」
よし、がんばれ! なぜだか応援するボクである。オタの小さな拳が、おじさんの拳にコツンと当たると、
「よろしくお願いします。ウチはおじさんを信じています。これから、ヨミセン君と会ってきます」
オタがペコリと頭を下げた。
「よろしくおねがいします」
タカシ君も頭を下げた。
「キミもやるかい?」
「うん」
「男同士の約束だ」
そして、本日二度目のグータッチ。
きっとおじさんは、夜通し子猫の面倒を見るのだろう。睡眠不足の体で、明日の現場仕事をやれるのか? もしも、子猫が死んでしまったら? もしも、有友涼平の母親が拒否したら? もしも、もしも、もしも……ボクは、諸手を挙げて喜べない……。
この一連の出来事を、どこか冷めた目で見ていたボクは、グータッチを交わす三人の姿が眩しく見えた。ボクは冷たい人間なのかもしれないな……こんな自分がとても嫌で、ボクは三人から目を逸らす。
「貴美子にはね、貴美子のよさがあるんだよ。あたしゃ、そう思うよ。お疲れさん」
ポンっとボクの背中を叩くと、おばあちゃんは店に戻った。
「じゃ、俺も」
おじさんがリュックを担ぐと、オタに向かって手を伸ばす。
「その箱を……」
「うん」
ゆっくりと、オタが箱を差し出すと、タカシ君が箱に向かっ手を振った。
「…………う」
これを機に、告白でもするかのように、オタの挙動が怪しくなった。オタはなにかを言いたげに、おじさんを見上げている。
「……ウチ、阿川春花です。せめて、お名前だけでも……」
そいうところが、オタらしいなとボクは思う。
「これは、読書台とコーヒーのお礼だから」
おじさんは、自己紹介をさらりと避けた。おじさんからすれば、オタは幼い女子高生。大人として、それは正しい対応だ。一本筋が通っている。こんな大人ばかりなら、パパ活とか援交なんて言葉は、この世から消えてなくなるだろう。
「じゃ、猫のおじさんで……い?」
心のバリアを解いたかのように、おじさんの顔がほころんだ。
「よかよ、よかよか。はっはっは~」
え、いいの? このままだと、この子……ほんとに懐くよ。
ボクの心配なんてどこ吹く風で、おじさんは町の中へと姿を消した。その背中が見えなくなるまで、オタはおじさんを見送った。
───ブーッ、ブーッ、ブーッ。
スマホのバイブが振動した。ボクはすぐさまメールを開く。惜しかった、遅かった、一分前なら間に合った。でも、朗報だ。
───以前の猫も、母は乳飲み子から育てました。だから、ご心配には及びません。明日、母と子猫を迎えにゆきます。メールに添付された、地図のお店でいいですか?
有友涼平のメールに向かって、オタが言う。
「よかよ、よかよか。はっはっは~」
その日から、本のおじさんは猫のおじさんになったけれど、おじさんであることには変わりない。

コメント
えっと、どなたかがわたしをお家に置いてくれるんですかね
捨て猫と人との出会いは、運命のめぐり合わせというか、邂逅というか……そんな偶然の先にあるのでしょう。よい人とのご縁がありますように(笑)