008 おじさんのかげおくり
六月中旬、水曜日。
梅雨前線の影響で、ジメジメとした日が続いていたのだが、今日は驚くばかりの青空だ。さよちゃん先輩の原稿を北原色羽へ届けるために、ボクらは駅前の書店へと足を延ばす。三度目の運び屋だ。粗相があっては一大事。ボクらに道草をする暇など、ないのだが?
「あれれ? 猫のおじさん」
オタが突然、立ち止まる。
「……だね」
あれは確かに、猫のおじさん。
「きみ、行こ!」
グイグイと、オタがボクの袖を引っ張った。
「なんで?」
「えー」
「えー、じゃないし」
オタの思いつきは、却下した。
オタには、レーダー装置が標準装備されているのだろうか? すぐになにかを見つけてしまう。駅の工事が仕事なんだから、おじさんがいてもいいじゃない。
「ねぇ~え、きみぃ。おじさんは、なにしてるんだろうね?」
おじさんが、駐車場の空いたスペースに立っている。現場仕事のおじさんは、三時の休憩中なのだろうか? それにしても……挙動が怪しい。というのも、しばらく地面を見つめて、天を仰ぐ。それを何度も繰り返しているからだ。
「きみ、きみ、きみ! 空飛ぶ円盤とか?」
キラキラと大きな瞳を輝かせながら、なんてレトロな言い回しだ。
おじさんが見上げる空を、ボクたちも見渡した。けれども、空にはなにもなく、ましてや、UFOどころから飛行機の姿もない。雲ひとつない、青い空が広がるばかりだ。
「もしかしてっ!」
また、オタがなにかに気づいたようだ。いろいろ気づいて、楽しそうだ。
「もしかしてって?」
「かげおくり」
「教科書の?」
「そう、教科書の。昨日ね、おじさんが読んでたの。『もう一度読みたい教科書の泣ける名作』の中に、『ちいちゃんのかげおくり』があったよ。それ、やってなくない?」
さすがは、猫のおじさんの専門家。細かいところまで、よく見ている。
「そうだとしても、おじさんだよ」
ちいちゃんのかげおくりは、戦時中の悲しい話だ。それに共感することがあったとしても、大人が実践するとは思えない。
「行こうよ!」
オタがボクの手を引っ張った。
「おじさんの迷惑になるでしょ?」
ボクはオタを引き留める。引っ張るオタと踏んばるボク。なんだか綱引きのような格好だ。
「違うよ。きっと、おじさんは勘違いしているんだよ。空に黒い影を探しているの。ウチも、やったことあるからわかるんだってぇー」
だってぇー、じゃないでしょ? ボクらは、運び屋を全うしないと。
「先に、原稿を届けようよ。書店は、そこだよ? 目と鼻の先だから!」
「時は、待ってくれないのぉ!」
そう言うと、テテテな感じの足取りで、オタは一目散に駆け出した。仕方ない……道草だ。ボクもオタの後ろをついてゆく。
「猫のおじさん、こんにちは」
オタがペコリと頭を下げた。
「あ? ひまわりの……」
言ったでしょ、そうなるでしょ? おじさんが困り顔だ。
「ハルカは気づきました。気づいてしまいました。この青空に、黒い影は見えません。かげおくりで見えるのは、白い影なんですよ。エッヘン、です!」
おじさんだってバカじゃない。本文に『白い』って書いてあるのだから、それくらいわかってる。てかさ、『気づいてしまいました』って、厨二病だと思われるよ。
おじさんが、ジッと自分の影を見つめている。そして、空を見上げて微笑んだ。
「あ! 白だったか……」
なんか、いろいろすみません……オタの推理が正解でした。
「ねぇ~え、猫のおじさん。ウチと、いっしょにやろうよ」
そう言って、おじさんの隣に並ぶと、オタがおじさんの手を取った。これはどういうことだろう。てか、この状況はマズくない? 女子高生とおじさんが、手をつないで立っている。
「きみもだよ」
なんでだよ?
それは勘弁願いたい、でもできない。なんでって? オタが目に涙をにじませているからだ……可愛い顔して、卑怯な手を使うオタである。おじさんの隣にしぶしぶ並んで、手をつないで影を見る。
「いち、にー、さん……目、つぶっちゃだめだよぉ~、よぉ~ん……」
オタのカウントアップが始まった。ボクは、なにをやっているのだろう……この光景を、ボクたちを、北原色羽に目撃されないことを切に願う。
「とぉ~、空を見て!」
「「うゎ~」」
青空に、白い影が三つ並んで浮いている。小学校の校庭で、何度もやったかげおくり。その記憶が駆け巡る。この気分は悪くない。むしろ、晴れやか。
こっそり、おじさんの顔をのぞくと、ドライアイになるくらい、瞬きもせずに空を見ていた。まぶたを閉じることを拒むかのように。白い影に遠いだれかを想うかのように。ずっと、おじさんは空を見上げている。
「ねぇ~え。猫のおじさんにも見えた?」
おじさんを見上げてオタが問う。
「うん。見えた、見えた。ありがとう」
スーっと、ボクとオタから手を離すと、おじさんが照れたように頭をかいた。
「ひまわり、明日も来てくれる?」
オタの追従が止まらない。もうこれは、営業なのでは?
「寄らせてもらうね」
それにオタがにやりと笑う。
「よかよぉ~。よかよか。あっはっは~」
もしかして、オタはそれを言いたかっただけなのか? それもあり得る。
「ありがとう。現場に戻るよ」
オタのものまねにニッコリ笑うと、猫のおじさんは駅に向かって歩いていった……背中の向こうで泣いているかのように、哀愁めいたものが漂って見えた。まぁ、どのおじさんの背中も、哀愁たっぷりであるのだけれど。
さぁ、ミッション再開だ。
「オタ。原稿、原稿!」
「うぃっす!」
ボクらは書店に向かって踵を返すと、書店の前で北原色羽が立っている。どう見ても、彼女は鬼の形相だ。これは……ヤバい。
「走るよ、オタ!」
「うぃっす!」
慌ててボクらは書店へ向かった。
「キミたちは、パパ活でもしているの?」
開口一番が、これである。
「だから、言ったじゃん。誤解されてるって!」
この場を取り繕うボクである。
「いーじゃん、猫のおじさんが喜んでくれたんだから! ハルカは満足しています。ハルカはやって、悔いなしです!」
オタが小さな胸を張る。
「そういうことじゃ……なくってさぁ。オタは、見境なく突っ走るから……ボクはオタが心配で言ってるの!」
「そういうことって、どういうこと? ウチはぜんぜん、悪くない」
オタが丸メガネのフレームをクイッと上げた。主張を曲げる気などないようだ。
「だから、そういうことに決まってんじゃん。大人の世界にはいろいろあんだから、おじさんが困るようなことをしちゃダメだって。女子高生って立場はね、凶器と同じだよ。下手すりゃおじさん、ボクらが社会的に抹殺しちゃうよ?」
「だから、どういうこと? 女子高生が凶器って? きみの言いたいことが、ウチには、ぜんぜんわかりまへん」
どうして、星ゆかり口調になるんだよ?
「まぁ、ふたりとも。いったん黙ろうか? そんなことがないとしてもよ、大人としては訊くでしょ? 男はね、オオカミなのよ。なにかあっても、知らないよ」
ボクとオタとのいざこざに、北原色羽が呆れ顔で割り込んだ。
「すみません」
素直に謝るボクとは裏腹に、自分の正義を信じるオタは、戦闘態勢を崩さない。すり替え論法で応戦を企てる。それが、北原色羽にクリーンヒットしてしまう。
「でもね、でもよ。ウチは気づいてしまったの。おじさんが読んでる本と、いろはさんの本棚の本とがね。今のところ、一致しているの、完全に。昨日から読み始めた本の題名はね『喘ぐ人』よ。猫のおじさんが好む本じゃない」
阿川春花がドヤ顔でそう言った。
「それ……」
北原色羽を遮るように、オタは持論を展開する。
「もしかしてだけれど、いろはさん。右側の本棚の本って、減ってるでしょ? それ、だれかにあげてるの? もしかして、彼氏さん? 名探偵ヒロシなら、きっと気づいていると思うの。ね、きみ!」
ボクに流れ弾が飛んできた。
「それは、そうかも……」
それにはボクも同感だ。北原色羽のマンションには、同じ本棚がふたつある。それは不思議なことではない。不思議なのは、左右同じ本が並んでいること。そして、マンションへ遊びにゆく度に、右側の本が徐々に減ってゆくことだ。オタの推理は核心を突いている。
「あ~あ。どこかにそんないい男、いないかなぁ~。金持ちのイケメン、いないかなぁ~。探して来てよ、名探偵の阿川ちゃぁ~ん。それと……さっきの本の題名は、たぶん『疼く人』だと思うよ。私、『喘ぐ人』なんて持ってないもの」
北原色羽からのドヤ顔返し。
「うぐっ、そうでした。間違いです。ウチは、そこのところは認めます」
北原色羽は冗談混じりでごまかした。けれど、刹那に青ざめた顔色だけは隠せない。北原色羽の本棚が、猫のおじさんと無関係であったとしても……あの本棚には何かある───

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