90分間の奇跡

ショート・ショート
土曜日(ショート・ショート)

 彼の顔は青ざめていた。

 本日投稿予定のショート・ショート。その準備が整わない。ブログ公開時間まで、90分を切っている。なのに一行も書けていない。てか、書くことすら決めていないふうに見える。ザ・ピンチ! 絶体絶命とはこのことである。

「やるっきゃねぇーんだよ」

 そうつぶやくと、彼はキーボードに指を乗せた。画面を睨むこと3分経過。画面は3分前と同じまま。一文字も打ち込まれていない。空白すらも何もない。

 わたしは彼を見守るだけ。わたしには、それしかできない。わたしは一年前から、これと同じ光景を何度も見守った。彼の毎日は、時間とのチキンラン。それが彼のライフスタイルになっていた。それでも彼は、間一髪で切り抜けてきた。無理を通してねじ込むように。

 でも、もう時間が……今夜はいつもと様子が違う。まったく彼は動かない。声をかけたくても、それはできない。どんなに呼びかけても、わたしの声は届かない。彼には、わたしの姿すら見えていない。身を乗り出すように彼を見つめるわたしに、声をかけるセーラー服姿の少女がいた。

「今夜は、かなり苦戦しているようですねぇ。へへへへへ」

「あ、チハルちゃん。こんばんは」

 彼を見ているわたしに、チハルが声をかけた。そう、わたしは霊体なのだ。チハルは、わたしの担当をしている死神だ。

「そうなの、チハルちゃん。今夜は無理かも……心配なの」

「いーじゃないですか。生身の人間には、休むことだって必要ですよ。おじさんなんか、結構怠けていますから」

 おじさんは、チハルと同居している人間だ。

 それは確かにそうである。そもそも、個人ブログの話である。書けなくても、休んでも、誰に咎められることもないのだから。いっそ、彼が諦めてくれることを、わたしは心の何処かで望んでいる。

「今夜は無理かにゃ? 二年も続けた連続投稿も、ここまでのようですね。問題は、一度休んだその先ですねぇ。ホラ、もう一時間を切りましたよ。もう、諦めて休んじゃえ」

 そのとおり。チハルの言い分も当然だけれど、もしも休めば、そのまま彼は筆を折ってしまうかもしれない。それでもわたしは構わない。彼が楽になるのなら、彼が元気でいてさえすれば、それだけで十分だから。

「そうですね。休むのもアリですね」

 わたしの予期せぬ返事に、チハルは眉をひそめた。

「そんなこと、言ってもいいんですか? 怒られちゃいますよ、彼に。だって、あなたのために書き続けているのですから。私は部外者ですから、好き勝手言えますけどね」

 そう、彼の文章を読み続けたい。それがわたしの願いだった。それを彼も知っている。知っているからこそ書いているのだ。チハルの言葉に、わたしは何も言い返せなかった。

「彼に動きが出ましたね」

 彼は椅子からムクッと立ち上がり、コーヒーを入れ始めた。そして、出来立てのコーヒーを一口飲むと、彼は壁に向かって声を上げた。

「お前ら、聞こえてっからな! その会話。それを書かせてもらおうかっ!」

 そう言い放つと、彼の指が動き始めた。ショート・ショートは短い作り話だ。文字数にすれば、千文字から二千文字。文字を入力するだけならば、半時間もあれば余裕で終わる。でも、それは内容が決まっているのが大前提。わたしとチハルの会話が聞こえているのは……彼得意のハッタリだ。自分のハッタリに乗っかって、物語を書き進めるタイプ。

 キーボートから打ち込まれる文字の羅列に、慌てたのはチハルであった。

「あれ? 私たちの会話……聞こえてましたか? 不思議ですねぇ……これは、神様に報告しないとですよ!」

 そう言うと、チハルは耳元に受話器をあてるポーズを取った。

「神様ですか? チハルです。イレギュラーが発生していますけど?……あ、そうですか……」

 チハルと神様が話している間も、彼の指は止まらない。見る見る文字が、画面の中を埋め尽くした。流石です。書くことさえ決まれば、打ち込みへの心配など、彼には不要なのだから……にしても、画面に表示される内容が、わたしとチハルとの会話に酷似しすぎだ。

「なんかねぇ。わたしの声……聞こえてる?」

 ありもしない……小さな期待を胸に秘め、わたしは彼に問いかけた。無駄だと知りつつ、問わずにはいられなかった。問わなければいけない気がした。

「当たり前だ」

 彼の声が、わたしの胸で弾け飛ぶ。

「これは、神様からの……へへへへへ」

 そう言うと、チハルは闇の中に消え去った

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