――苺って摘果すんのか?。
昨日の嵐の中、僕はよつぼしを眺めていた。苺の苗である。大粒の雨に当たりながらも天に向かって葉を伸ばす。元気はつらつ苺さんであった。苺には、子孫を残すべくランナーと呼ばれる蔓を伸ばす。その先でひとつ目に根付くのは子株と呼ばれる。次世代として、来年育てるのは子株の向こう側の孫株である。仮に今、絶賛育成中の苗に病気が発生していた場合、病原菌が子株にまで影響を及ぼすのだ。その大切なランナーは、苺の実を取り終えるまでは切り取ってしまう。エネルギーを実に集中させるために。
――全ては友人からの受け売りである。
去年の秋のメールに書かれていた内容を、僕はそのまま実践しているに過ぎない。幸いにも苺の実が盛大についていて、今日もサヨリは元気です。大きな実や小さな実が……ん?、苺って摘果しなくても良いのだろうか?。昨年、ナスでもキュウリでも育ちそうもない実は摘果していた。桃に至っては相当なもので、一枝に対して3個の実しか残さない。苺の摘果も至極当然のように思えてくる。
ブルーシートの屋根の下、コツンコツンと頭に当たる干した玉ねぎ、豪雨に揺れる苺の葉。土砂降りの雨の中、いつまでも遭難もしてはいられない。カッパを着込んで雷鳴轟く中、サヨリの元へとバイクを走らせる。猫にご飯を食べさせながら、ブログ記事を書いているうちに苺の事を忘れてしまった。直ぐに忘れる……歳であった。
――畑がうんぬん。
今日、現場でダイレックスで買ったのり弁当を食べながら、知らないおじいさんと畑の話になった。奇遇にも、おじいさんは苺を20株ほど栽培しているらしい。僕のは3株であるのだから7倍である。苺キャリアも長いらしい。嬉しそうに苺を語る。そこで思い出す、苺の摘果をやるやならい問題である。ちくわの天ぷらを咥えながら、僕は摘果の話を切り出した。
「あんな、苺って摘果すんの?」
「そんなのするに決まってる(笑)」
やっぱり……、即答であった。小さな実は、どんなに頑張っても小さくしか育たない。見つけ次第摘果が鉄則なのだとか。僕は好きなおかずは最後の食べる主義である。深みのある赤いウィンナーを横にどけ、海苔に米を巻いて食べる。おじいさんは愛妻弁当を誇らしげに食べている。食べながらも苺の話は終わらない。ランナーは全部取れ。あんなの後からガンガン出て来る。
「人工授粉、やってる?」
「うちはハチさん任せやで」
「えーなぁー、うちは筆でちょいちょいや(笑)」
そんな楽しいトークも終わり、互いに別の持ち場へと向かう。今の進行状態なら畑に行けるのは数日先。次に畑に行けた時は、真っ先に小さな実を摘果しよう。とてもとても勿体ない気がするのだけれど(汗)。
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