───あ”。
非接触型体温計のエラー音。
陰キャな僕に集まる注目、こんなの初めて。赤く輝くモニタ表示、デジタルが示す数字は38.2度だった。ようこそ地獄へ。
───この体温計、壊れてんじゃね?
咄嗟に虚勢を張る。
隣にいた若い衆が自分の体温を測る、36.5度。続けて僕も計り直す、38.3度。さっきより上がってんじゃん!。熱あるじゃん!。僕の半径2mから人が消えた。モーゼの海割りだった。それは帰れの意志表示。消えて無くなれの意志表示。
───やっぱそうなるか、俺、帰るわ。帰って寝るわ、薬あるし
───ですね、また明日
また明日て?…こいつ…鬼だな…。
そうなる事は分かってた。2度目のコロナワクチンを前日に打ったのだ。二人の息子も2、3日寝込んだ。発熱は想定の範囲内で覚悟もしていた。精神的ダメージが僕の覚悟を上回る。小さな胸が痛んだ。不思議と身体は辛くない。むしろ体調は良かった。清々しい気分ですらあった。絶好調で息が熱い!。
───でも、君に届くと死ぬ方の貞子がクル嫌な予感は消せなかった
ドラックストアひまわりで体温計を買う
───会社まで帰り道、車内の空気は曇天だった
オブ・ザ・デットの気分だった。ゾンビ映画で噛まれたやつだ。それにしても体調がいい。身体から発する熱量を感じているのに悪寒が全く走らない。俺、ゾンビになるの?。体温を計ってなければ、そのまま仕事をしていた事だろう。それくらい元気なのだ。何なら帰りにパチ屋に行けるくらいの絶好調。
今日の気分は実に良かった、体温を計るまでは。
───冷えピタシート買って帰った方が良いっすよ
気を使ったのだろうか、若い衆が口火を切る。
───体温計も一緒に買って帰るわ
僕が答える。
彼の二度目は少し先。あまり脅しても可哀そう。そんな気持ちもあって気丈に振舞う。全然無理などしていない。ナチュラルで幾らでも喋れる。うどんと、おにぎりと、コロッケ。昼食も美味しく食べられた。元気ハツラツお父さんだった。
何かがおかしい…。
───帰りにパワーシティで冷えピタシートと体温計買って帰るわ
───そうした方が良いですね。じゃ、また明日
じゃ、また明日?、、、やっぱ鬼だ。
自転車でパワーシティへ向かう。生活館に体温計があったはず。身体の火照りを感じるけれど、それ以外は絶好調。とっとと買って、さっさと帰ろう。それにしても辛くない。昨日よりも調子がいい。走行中にふと思う。
───店に入る前、体温測定器あったっけ?
冷えピタシートは要らない。体温計は是非とも欲しい。緊急事態で入店拒否は困る。店に入れなかったら、店員さんを捕まえて買って来てもらおう。ほんの数分間が数時間にも感じられる。ジャネーの法則が裏返る。非接触型体温計の値段を見て血の気が引いた。一番安いので3,980円もする。
鬼だった。
───高い、高すぎる!
店員さんに、もっと安い体温計が無いのか訊いてみると、これが一番安いタイプなのだとか。高性能で凄く安い体温計がこれなのだとか。
売る気満々の笑顔が怖い。
───知ってる、それ噓でしょ!
もっと安いので良いんだよ、1,000円くらいで良いんだよ、水銀のやつで十分だから。水銀のやつをご指名したいくらいだから。餅は餅屋。体温計はドラックストア。僕はドラックストアひまわりに向けてペダルを漕ぐ。
風を切って走る38.2度。
───馬鹿なの?
僕の中で界王拳2倍が発動していた。このパターン、あとでガクッと落ちるパターン。小学生時代はそんな事もあったっけ。僕は少しセーブする。元気の後のしっぺ返しがマジで怖い。
───あった!これだよ、これ!!
OMRON体温計「けんおんくん」1,000円!。
安いは正義、体温計に接触されても構わない、今日の僕はお障りオッケー。けんおんくんと冷えピタシートを握り締め、僕は愛猫サヨリの元へ帰った。いつもと違う帰宅時間にサヨリさんはキョトン顔。
今日もサヨリは元気です。
───気分は良いのに薬飲んで構わない?もうちょっと待つ?
まずは体温を計ってからだ。どうせ38度を越えてるんでしょ、今夜は地獄の夜を過ごすんでしょ。悪寒が始まって、寒くなって、しんどくなって、節々が痛くなって、ご飯が食べられなくて…。そんな数日が待ってるんでしょ。
知ってる。
───ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ…
けんおんくんを脇から引き抜く。実に嫌な気分だった、35.9度。
───35.9度ですと!
もう一度、計り直す。今度は脇にしっかりとけんおんくんを差し込む、36.2度。もう一度計り直す、36.4度。謎の平熱にほくそ笑む。明日も仕事に行ける喜び。
───今夜は何食べよ。
後日談
───熱が急に上がって下がる事ある?
何人かの知人にワクチン接種の話を訊いてみると、体温が上がったり下がったりを繰り返し、数日で落ち着いたという話が多かった。長い人は一週間ほど続いたそうだ。僕の場合は一回こっきり。熱が出た時はヒヤリとしたけれど、それだけで終わってくれて助かった。
貧乏人は寝込んでられない。
稼げるときに稼がないとです。
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