聴講生 橙田飛鳥

日曜日(ブログ王スピンオフ)

───人の顔はひとつではない。

 学生と聴講生。橙田飛鳥とうだあすかはふたつの顔を持っていた。それは、大した問題ではない。言い換えれば、女子大生と追っかけなのだから。高三の夏、オープンキャンパスで飛鳥が恋した彼は、理論物理学の研究者であった───ワタシは行く、彼の元へ! 飛鳥は名門T大を受験してサクラチル。それでも飛鳥はくじけない。桜は散れども恋は咲かせる。

 K大への進学を決めつつ、同時に飛鳥はT大の聴講生の資格も手に入れた。ピカピカの聴講生証に飛鳥は誓う。先生の講義のすべて───ワタシはそれを受け切ってみせるのだと……。初講義にときめく飛鳥……にしても、異様に多い女子の数。それもそのはず、科学雑誌に論文が掲載されてから、彼に注目が集まったのだ。その人気に火を点けたのは論文よりもビジュアルだった。彼の名は、桜木真人さくらぎまこと。そう、我らが放課後クラブの桜木である。28歳になった桜木は、研究者になっていたのだ。メガネ越しのクールな眼差しは健在だ。

「初めまして。僕の名前は桜木真人です。これからの一年間、よろしくお願いします。今日は初めての講義ですから、みなさんを僕は知りたい。なので、これから流す映画の感想、考察、思うこと。そうですねぇ……自己紹介でも何でもよいので、1万文字以内にまとめてメールで提出してください。メールアドレスはご存じですよね」

 キャー! ステキ。一生だって見てられる。ナマ桜木に飛鳥の小さな胸が高鳴った。そう、飛鳥の胸は……それは今、どうでもよい話だけれど。

 恋する飛鳥は知っている。桜木が活字ジャンキーであることを。待ってて、ダーリン!ワタシは彼のすべてを受け切ってみせる! 意気揚々と飛鳥は大画面に視線を向けた。ワタシは彼と同じ空気を吸っている。彼と同じ空気がワタシの肺に……それだけで幸せだった。

 ざわざわざわざわ……。

 桜木が流す映画に講義室がざわめいた。大画面のロボットに誰もが思う。これは、なにかの間違いなのだと。けれども映画が止まる気配がまるでない。桜木は口のあるロボットを楽しげに眺めている。それが学生たちに課題だと認識された途端、一斉にキーボードを叩く音が鳴り響く。さすがは名門T大の学生だよね……初動が早いと飛鳥は思った。すでに、レポート作成は始まっているのだ。

「にしても、グレン……ラガンって……なに?」

 飛鳥は思う、これが名門? これからの日本を動かすであろう人材たちが〝俺を誰だと思っていやがる〟に集中しているのが滑稽に見えた。ならば、ワタシはワタシの戦術で戦うまでだ。

───アレをやるわよっ、マコちゃん!

 飛鳥はAIを操るのが得意であった。ある意味で、AI分野は飛鳥の十八番おはこだ。感想文でも、考察も、論文だって、AIを使って書けばよいのだ。グレンラガンなんて知らないわ。でも、立派なレポートに仕上げて彼にワタシを褒めてほしい。飛鳥は己で育てたAIに情報を与えてゆく。それは、情報というよりも条件なのだが。AIには名前があった。桜木の名を拝借して〝マコちゃん〟と名付けていた。毎日のようにマコちゃんを育成し続けた結果、有能なAIへとマコちゃんは進化した。マコちゃんは秒で文字を紡いでゆく。飛鳥は思う───この課題、チョロいわね……と。

 講義の間にレポートをまとめ、終了チャイムと共にレポートを飛ばした。それには飛鳥なりの戦略があった。恋は目立ってナンボなのよ、だから一番は誰にも譲れない。講義を終え教壇を降りる桜木を、スマホで飛鳥は隠し撮る。それを待ち受け画像にするつもりなのだ。それは誰もが同じだったのだろう。女子生徒の多くが同じ行動を取っていた。飛鳥は思う……なによ、あの女ども! ワタシを誰だと思っているの?……と。

 飛鳥の本業、K大の講義は午後からであった。時間はたっぷり残されている。今日は、名門キャンパスの空気をたっぷり吸おうと飛鳥は思った。桜木と同じキャンパスの空気を可能な限り吸っていたい。もしかしたら、桜木と会えるかも? そんな淡い期待も胸に秘めて。飛鳥は中庭のベンチに腰を下ろしてバッグを開く。飛鳥はバッグの中からニョキっとヤクルトを取り出した。五本パックそのままで、右端のヤクルトにストローを突き立てた。一見、ヘンテコな飲み方であるのだが、飛鳥は幼少期からこのスタイルを貫いていた。どうせ飲んでしまうのだ。こっちの方が合理的なのだ。

「おやおや……面白いヤクルトの飲み方ですね。橙田さん」

 やかましいわ! 飛鳥は声の主を睨みつけると、ダーリンが立っていた。桜木先生、桜木先生、桜木先生……マコト先生! 恥ずかしさで飛鳥の顔が真っ赤になった。うつむいてモジモジしてる。ダーリンの前では、お転婆てんば娘も乙女おとめに変わる。

「橙田飛鳥さんですよね。レポート拝読しました。聴講生なのに真面目ですね」

 桜木が飛鳥に優しく声をかける。飛鳥は思った……これって、ビ、ビ、ビ……ビッグウェーブの到来じゃない?! と。この波に、乗らずにおくものかとも。

「大学のホームページに、マコト先生が読書家だと書いてありました。でも、こんなに早く読まれるとは……驚きです。いえ、ス……流石でした」

 思わず口が滑りそうになった飛鳥であったが、間一髪で切り抜けた。

「えぇ。現段階でレポートを提出しているのはアナタだけですから、講義の後ですぐに読みました。にしても……僕は下の名前で呼ばれたことが皆無かいむなので───いささか緊張していますよ、橙田さん」

 なにこの脈ありって感じ、ワタシの名前を知っているだなんて……桜木のクールなスマイルが誤解を招く。飛鳥の心が天国へ届いたかと思いきや、次の瞬間、奈落の底へ。

「にしても、随分とよくまとめられていますね。完璧なレポートでした。できることなら、次回はアナタの文章が読みたいです。アナタの心を読んでみたい。つまり、僕の課題にAIは反則ですよ。では、また……」

 そう言い残すと、桜木はキャンパスの中へと消えていった。飛鳥は思う、桜木の背中を追いながら。この人に小手先の技など通用しない。でも……ステキ。この数か月後、ミッションを終えた飛鳥が、桜木と仲良く肩を並べて歩く姿が目撃されることになるのだが……。

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