今日は、全国的にバレンタインの前日だった。
都会ではデパ地下が揺れる日らしい。けれど、こっちじゃマルナカがざわつく程度のことである。そして、俺にもオッツーにも無縁の日なのだからどうでもいい。
俺たちにチョコをくれるのはゆきだけである。毎年ゆきは、一粒だけチョコをくれる。ジャン=ポール・エヴァンのバレンタイン限定チョコだ。ゆきがパパに渡すついでに同じのをもう一箱買うのだ。それを、ママと一緒に食べている。俺たちのチョコはおこぼれである。だがしかし、これは、貴重なおこぼれだ。
「はい、お・す・そ・義理♡ 先生に見つからないでね」
バレンタインの朝。そう言って、ゆきはチョコを渡すのだ。義理とはいえ、一個とはいえ、このチョコ一粒六百円。こんなの一生懸けても貰えねぇ。だから、三回まわってワンの勢いで、俺たちはチョコを受け取っていた。バレンタインも〝ゆき〟を〝ゆき様〟と呼ぶ日である。
そのバレンタイン前日。
放課後、アケミとゆきに詰め寄られるオッツーがいた。発端はツクヨである。ツクヨは、数日前から俺にオッツーの話ばかりをするようになった。
「サヨちゃん、オッツーなにかいってない?」
「何を?」
「なんでもない……」
これが何度も繰り返される。さすがの俺も気になってアケミに相談。すると突然、アケミ爆発! それが、ゆきに飛び火したのだ。どうしてそうなるのか、俺たちにはさっぱりだ。ただ、アケミの地雷を踏んだのは、揺るがない事実であった。
「オッツー、ちょっと、ここにお座り」
オッツーは犬ですか?
アケミの眉間にシワが寄る。訳も分からず椅子に腰掛けるオッツー。教室の机を挟んで、アケミとゆきは真正面に座る。さながら、刑事ドラマのワンシーンだ。
「オッツー! ツクヨちゃんのお土産に何をもらったって?」
アケミのトーンは〝犯人はお前だっ!〟って感じである。きっと、白でも黒にしてしまうのだろう。
「富士山アポロ……でした……」
「富士山アポロを───どうしたって! あぁ?」
アケミの追求が止まらない。
「サヨっちと食べた……ました」
「なんですって!」
キッとした目でアケミが俺を睨んでいる。ゆきは蔑んだような目で俺を見ている。オッツーよ、俺の名前を出すんじゃない。踏んだんだ、踏んだんだ……俺たちは、謎の地雷を踏んだらしい。恐怖で俺は目を伏せた。
「ねぇ、オッツー。富士山アポロの材料は?」
アケミのトーンがやわらいだ。怖い刑事の次は優しい刑事。そのうち、カツ丼が出そうである。
「チョコレートだけど……それが何か?」
「あー!!!」
咄嗟に、俺の口から声が出た。
気づいてしまったのは俺だった。そっか、そっか、そういうことか……。だから、わたしのオッツーか……そんでもって忍ちゃんか……俺は妙に納得した。
「それは、罪づくりですね。オッツーさん(笑)」
俺の背中越しから声がする。声の主は桜木だった。
「桜木。いつから、そこにいたの?」
「最初からです。ここで本を読んでいましたよ。ここは僕のクラスの教室ですし、あなた方が入ってきたのですよ。アケミさんも、ゆきさんも、僕に気づいていたと思いますが……」
桜木は涼しげに答え、俺はアケミとゆきへ顔を向けた。
「そう……なん?」
確認である。報告・連絡・相談。何事も、ホウレンソウは大切なのだ。
「そうだけど」
「うん」
アケミとゆきは頷いた。可哀想なのは、オッツーである。ずっと、小動物のようにオドオドしている。普段は勇敢な正義の味方といえども、この時ばかりはオッツーの目に、桜木が正義の味方に見えたのに違いない。神にもすがる目をしている。
「オ……オレ、どうしたらいい?」
オッツーが、か細い声で桜木に問う。
「今度、ツクヨちゃんに会ったら『チョコレート、おいしかったよ。ありがとう』それで十分ですよ」
「それだけでいい?」
「それだけで結構です(笑)」
桜木の笑顔にオッツーは胸を撫で下ろし、桜木の代弁により女性陣の怒りも収まった。ふたりとも、晴れやかな顔をしやがって。まったく、もう……ゲリラ豪雨のような女たちだ。
「帰ったら、ツクヨちゃんに、それ、言ってあげなよ! アンタもチョコ食べたことは言っちゃダメよ!」
アケミが俺に釘を刺す。
「はい。わかりました……」
ゆきのチョコしか知らない俺たちに、そんなの分かるはずないのに……道端で、いきなりヤンキーにボコられた気分だ。何かが解せん。でも、言わない……。
「じゃ、話は終わったから、私たち帰るわね。ゆきちゃん、帰ろう」
アケミがゆきを家路に誘う。
「うん、帰ろう。明日、チョコ持ってくるね」
ゆきは、俺たちに小さく手を振った。今日は、俺も早く帰りたい。オッツーが喜んでいたと、ツクヨに話してあげないと。喜ぶ顔が目に浮かぶ。
「じゃ、俺たちも退散、退散。で、桜木はどうする?」
「僕はもう少し本を読んでから帰ります。皆さんは、お先にどうぞ(笑)」
桜木は読書を再開。見るからに難しそうな本を広げて読んでいる。
「じゃ、また明日な」
「じゃ、またね」
そう言い残して、俺たちは教室を後にした。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
賑やかだった学校も、静まり返った夕暮れ時。
桜木は、夕日が差し込む下駄箱の前に立っていた。
そっと、下駄箱へ紙袋を忍ばせながら彼は呟く……
「ほんとに……アナタって人は……」
下駄箱には〝飛川〟のネームが貼られていた。
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