「お父ちゃん。小五郎ちゃん……今日、お店に来なかったね……」
恵子は店の暖簾を片づけながらため息をつく。
「どうしたんだろうねぇ、小五郎さん。昨日は今日も来るって言って帰ったのに……」
食器を片づける洋平も心配げだ。
「昨日、恵子があんなことを言ったからかな?」
恵子は昨夜の態度に後悔を感じていた。恵子は思う。もっと優しくすればよかったのにと。
「そんなことはないだろう……小五郎さんにだって、小五郎さんの都合があるだろうし……もしかしたら、昨日の約束だって、忘れちゃったのかもしれないよ。ああ見えても小五郎さん、今年で百歳だからね」
厨房で食器を洗う洋平は、優しい声で恵子をなだめた。
「それもそうね」
そうなのだ。店のお客には高齢者が多い。来店の口約束をすっぽかされることなどよくあることだ。小五郎の年齢を考えれば、これまでしっかりしすぎていたと考えるべきだろう。恵子は洋平の意見に同意した。
「心配ないよ、気長に待とう。そういえば小五郎さん。今日はデパ地下に行くってSNSに書いてたぞ。ところで恵子……マロカンって、なんだ?」
洋平は皿を拭き上げながら恵子に聞いた。
「あーあれね。たぶん、マカロンの間違いよ。どうしたんだろうね? 急にマカロンって。もしかし……お父ちゃん! 小五郎さんって、彼女いるの? そんな話、聞いたことない? うわぁ~そうなんだぁ~……なんか、意外だけどロマンチックぅ~」
恵子には、すべての事象が恋愛に変換されているようである。
「百年の恋か……ロマンチックだけど、それはないだろう」
「なんでよ? 女は灰になるまでなのに……」
恵子の口から飛び出した〝女は灰になるまで〟それに、困惑の表情を浮かべながら、洋平はその場を茶化す。
「おやおや、大岡越前かい? そりゃ、古風なこった。ところで、お前はどうなんだよ?」
「何がよ?」
洋平のにやけた顔に、恵子の返事がトゲトゲしい。
「そんなの……あれだ……ボーイフレンドとか……彼氏とか……いるのか? いや、別にいいけど。でも、まぁ……あぁ、返事はいらない」
洋平はオドオドし始めた。父親として聞きたくもない回答である。
「いないわよ、いるわけないじゃん。高校行って、店の手伝いして……はぁ……。どこに彼氏を作る時間があるのよ? だったら、恵子にもお休みとお小遣いをちょうだいよ! バッカじゃないの? お父ちゃん!」
〝彼氏〟の言葉響きに恵子の表情が険しくなったが、洋平はキュッキュと音を鳴らせて皿を磨いている。その表情はうれしげであった───その三日後。恵子の心は、不安の渦中の底にあった。
(小五郎ちゃんのSNSの更新が止まってる……)
今やSNSは、小五郎の生活の糧である。それが三日も止まるのはおかしい。これは、明らかな異常事態。慌てて小五郎へ連絡しても応答がまるでない。いつもなら、数時間以内に恵子のスマホへ連絡が入るのに……恵子が産まれてから、こんなことは一度もなかった。そして恵子は決心する。
(行こう、小五郎ちゃんの家に!)
両親と一度だけ訪ねた。その幼き記憶だけを頼りに。高校からの帰り道。恵子は小五郎の家に向かって自転車を走らせた。
(元気でいてよ、小五郎ちゃん……)
恵子は息を切らせながら初夏の農道を走り抜ける。不安に煽られるようにペダルを回す速度が速くなる。十分後、目の前の風景と遠い記憶の景色が合致した。
(ここだっ!───でも?!)
小五郎の家を目の当たりにした恵子は、大きく息を飲み込んだ。
「なんてことなの……」
小五郎の家は空き地だった。記憶の中の景色から、小五郎の家だけがすっぽりと抜けていた。
(どこへ行ったの? 小五郎ちゃん!)
本能的に恵子は自転車を走らせる。満天の青空とは裏腹に、恵子の向かう先は厚い雲で覆われていた……。
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