003 屈辱の校長室
お盆が明けた夏休み。
俺たち親子は、なぜだか学校に呼び出された。静かな校庭、静かな教室。子どものいない学校は、寂しさよりも恐怖を感じた。校庭の隅の巨木から、聞こえる蝉の声だけが喧しい。
抜けるような青空と海に浮かんだ入道雲。誰の目からも、今日は絶好の海水浴日和のはずなのに、俺たち親子の気分は曇天だった。ほら見てみ?……俺の隣のオカンから、今にも雷が落ちそうだ。その先で、ゲリラ豪雨だけは堪忍な(汗)
俺たちが待たされているのは職員室だった。花壇に植えられた大きなひまわりが窓から見えた。黄色い花にミツバチが。そうだ! 今日は気分を変えて、ブログにミツバチの写真を投稿しよう。そんな呑気なことを俺は考えていた。ブログ存続の危機が目の前にあるなど知らずに……。
「こちらへどうぞ……」
吉田先生がオカンに軽く会釈した。去年の担任だった先生だ。とても気まずそうな面持ちで、俺たち親子を校長室へと案内する。先生も、俺たちが呼び出された理由を知らないようだ。
「ちょっと飛川君、何やったのよ?」
校長室のドアを開く前、吉田先生が小声で俺に聞いた。
「わからんけど、カブトムシ……」
俺は小声でそう答えた。職員室とは打って変わって、校長室は涼しかった。その涼しさは、俺が身震いするほどであった。いーなー、校長先生……。
「お母様。お忙しいところ、ご足労をお掛けしました。実は、昨日お電話した飛川君のブログの件なのですけれど……」
神妙な顔つきで校長先生が語り始めると、オカンが一瞬固くなる。その場の空気で、只事ではないことが小学生の俺にも分かった。
「申し訳ありません……うちの子が何をしでかしたのでしょうか?」
オカンのビクビクした声。それを俺は初めて聞いた。しばしの沈黙の後、静かに校長先生が口を開いた。
「それがお母様、少し困ったことになりまして……カブトムシが……重なってる写真が……カブトムシでしてね……それがネットで……それが、飛川君のカブトムシでして……」
俺には何がなんだかの話である。
「たいへん申し訳ありません……」
ずっとオカンは校長先生に頭を下げている。やっぱり俺には、理由が全く分からない。校長先生の口から飛び出す単語。その90パーセントが『カブトムシ』と『重なって』なのだ。時折、校長先生の口から飛び出す“こうび”って何だよ?
俺には大人の会話が難しい。けれど、どうやら俺のブログがネットニュースで取り上げられたらしい。それは、カブトムシの交尾の画像を、毎日投稿している小学生の話題として。当然だけれど、その行為に罪はない。遠い昔なら微笑ましい話だけれど、よく分からない団体が、ギャーギャー騒ぎ始めたらしいのだ。
つまり、学校からの言い分は、俺のブログを閉鎖してほしいとのことである。けれども、今の時代はややこしい。もし仮に俺の両親が逆ギレすれば、それはそれで学校も困るのだ。だから慎重に話をまとめて、この一件から幕を引きたいのであろう。校長先生からの要望は、そのままオカンからの命令となった。俺にとって、それは死刑宣告のようなものである。
───俺のブログから、カブトムシの全てを消せと……。
高3の今なら理解もできよう。学校側の立場にだって納得もできたであろう。けれど、小学生の俺には無理だった。炎上した俺の写真には、ネット民が喜ぶネタが隠れていた。カブトムシの交尾の写真。それに『これ、何してんの?』という、子どもからの素朴なメッセージである。そりゃ、燃えるに決まってる(汗) ネット上に小学校の名前が出たのは、俺がプロフに学校名を書いたからだ。それについては、今でも深く反省している……。
全く事情が飲み込めない俺は、まじまじと、初めての校長室の中を見渡していた。立派なデスク、大きな本棚、そして壺や銅像などの装飾品の数々。何もかもが新鮮に見えた。校長室なんて、そうそう入れるものでもないからな……。
結局のところ、オカンと校長先生との間では、ブログの削除で話がまとまったらしい。それに対して、俺は泣きながら反抗し抵抗した。俺のブログは、俺の記事は、俺の努力の結晶なのだ。そう簡単に引き下がれるワケがない。テレビの恋愛ドラマで聞いた台詞。俺はそれを両親に向かってぶつけてやった。
「俺の時間を返してよ!」
これは俺からの宣戦布告だ。ここから俺の攻防戦が始まった。記事を消す。その理由が分からない。それが嫌で嫌でたまらなくて、理不尽にさえ思えたからだ。
「何で消すん? これ、ただのカブトムシやん!」
俺はオトンに食ってかかる。
「やかましい! だまって学校の言うことを聞きなさい!」
オトンはこれの一点張りだ。どれだけ俺が頑張ったと思ってるんだ。俺だってバカじゃない。ちゃんとしたワケを教えろってんだ!
「何でもええ、すぐに消すんや!」
オトンが吠える。すると、オカンがオトンに加勢する。
「そうよ、消しなさい。今すぐに!」
オトンもオカンもそれしか言わない。一瞬、俺の頭に桜木の顔が浮かんだ。アイツなら、上手く話してくれるかもしれない。いやきっと、そうしてくれるに違いない。
「何でもええなら、消さんでええやん! なんでなん? 桜木、呼ぼか?」
俺は伝家の宝刀を引き抜いた。
「お前は知らんでええ、あぁ、やかましい! 何でもかんでも、桜木君に迷惑かけるな!」
伝家の宝刀は、一瞬でブチ折られた。
「だって、普通のカブトムシやん……じいちゃんの……」
討論だか屁理屈だか……こんな水掛け論が小一時間以上も続いていた。俺は定期的に桜木の名前を出し、そのたびに、オトンの声がデカくなる。オカンは食事を片づけると風呂を沸かしに部屋を出た。それが、嵐の前の静けさだとも知らず、カブトムシ論争はヒートアップの一途をたどる。
ドンッ!
おもむろにキッチンの扉が大きく開いた。俺とオトンはギョッとした。秒で危険を察知したのだ。般若のようなオカンの表情。いつもそう、いつだってそう……それは終わりの始まりの合図である。ヤバい、ヤバい、ヤバい……。ついに、我が家のボスキャラが火を噴いたのだ。一瞬で、言葉の業火が俺の耳を駆け抜けた。
「さっきから黙って聞いてりゃ、あんた、ずべこべうるさいのよ! だったら、ブログごと消しちゃいなさいよ! こんなことになって、お母さん、桜木君になんてお詫びしたらいいのよ!」
なんだよ、なんだよ。皆殺しかよ? 結局、オカンの鶴の一声で、俺の夏は滅亡した。泣く泣く俺は、カブトムシの全てを抹消し、土下座で謝り、ブログの命だけは勘弁してもらった。校長先生には、今後、両親が俺の記事を管理するという約束で。
そして夏休みも終わりを迎え、俺が提出した自由研究。それは、あの日からも撮影し続けたカブトムシの画像だ。重なり合う二匹のカブトムシの画像に“これ、何してんの?”という言葉の連打を添えて。
してやった!
「飛川君、自由研究、あれからどうなりましたか?」
俺は不敵な笑みを浮かべながら、自由研究を差し出した。
「桜木よ、俺の夏は終わらない!」
いつもクールな桜木も、期待の色が隠せない。
「それは楽しみですね」
校長室からの一部始終を俺から聞いていた桜木が、自由研究に目を通す。すると、桜木の顔が険しくなった。俺の自由研究に、頭の中で詰め将棋をしているのだろう。数秒の沈黙の後、スッキリした顔で、桜木はこう言った。
「やりますね(笑)」
それは、桜木からの最高の褒め言葉。
この自由研究は、弱き者から強き者への復讐なのだ。そして、夏休みの宿題を提出した日の放課後、再びオカンは学校から呼び出しがあったのは言うまでもない。その後で、散々お説教されたことも。
屈辱の校長室を乗り越え、俺はあのブログに今でも記事を書き続けている。たまに学校の愚痴も書いている。けれど、その行為に意味はない。復讐心が薄れた今、ブログは俺の暇つぶしの道具になった。
ブログに新たなカテゴリが加わったのは、中1になる直前の春休みのことである。カテ追加の裏側には、可愛い姪っ子からのおねだりがあった。
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