008 のんとゆい
ウチは、短い登校拒否を卒業した。でも、やっぱ初日、学校へ行くのが辛かった。一度刻まれたトラウマが、ウチの心を暗くする。また、シカトされるに決まってる。そう考えただけでも嫌になる。
それでも、朝。制服に着替えた姿を、ママの店の大きな鏡に映して身支度を整えた。これがウチの戦闘服だ。ピシッとした姿で、あの子に挨拶するんだ───『おはよう』って。
中学に入ってから、教室に入る瞬間はいつも怖い。勇気を振り絞って扉を開く。すると、ウチの姿を見たクラスメイトの動きが止まった。ウチの心臓もたぶん止まった。ウチの膝がガタガタ震えた。
「ゆいちゃーん。おっはようねぇ!!!」
静まり返った教室で、ウチを呼ぶ声がする。少し甲高くて、おっとりとしてて、線が細くて、とても優しい。そんな声がウチを呼んだ。
のんちゃんだ。
その声に膝の震えが止まった。もう、何も怖くない。そして、ウチは、のんちゃんに挨拶をしたんだ。
「のんちゃん、おはよう」
すると、何事もなかったように、止まったクラスの時間が動き始めた。誰もウチの悪口なんて言ってない。クラスの中には、ウチに手を振る子もいた。ウチは少しだけ、クラスに溶け込めた気がした。
でも、なんで……この席なの?
担任の計らいだろうか? ウチの席はのんちゃんの隣になった。のんちゃんは視力が弱い。だから、教壇の真向かいがのんちゃんの指定席だ。それは、小学校からずっとそうだった。のんちゃんが入るクラスでは、決まって教壇の前がのんちゃんの場所だった。
勉強が得意なのんちゃんと違って、ウチは勉強が大嫌いだ。成績だって下からの方がずっとはやい。なのに、この席って、あり得ない。だって最前列は、お勉強好きだけの席だから。
バカなウチにはそぐわない。
教室の最前列に座るウチ。こんなの見たら、ウチの両親が泣いて喜んじゃうよ。こんな席……絶望の中でウチは不満を言いかけると、その前にのんちゃんが口を開いた。ウチを説得するつもり?
「わたしねぇ、相談あるんだ。ゆいちゃんに。だから、わたしの隣にいてくれない?」
全然、違った。
のんちゃんは、何を語るのも恥ずかしげだ。あんなにムカついていたのに、不思議とその仕草が守ってあげたくなる。幼く見える外見が、のんちゃんの可愛さを増幅させる。放課後、カバンの中に入れて帰りたいほど可愛く見えた。
だから、ウチは決意した。その決意は一世一代の決意だ。この席は、気に入らない。でもね、我慢しようって決めたんだ。ウチはダチのためなら我慢できる!
「で、のんちゃん。相談って何?」
昼休み、ウチはのんちゃんに問いかけた。すると、のんちゃんの顔が、お弁当のプチトマトみたく真っ赤になった。ウチの目の前のプチトマトは、耳たぶまで完熟だった。それで理解したよ。ウチは勘のいい女だから。
「のんちゃん、好きな人がいるでしょ」
「……」
のんちゃんは、ペコリと顔を伏せてしまう。ウチに見えるのは、のんちゃんのつむじだけ。この子、どんだけ、そいつが好きなのよ───くるりとクラスを見渡して、めぼしい男の顔を拝む。アイツは違う、コイツは論外……。
どれもこれもが、あの子の好みとは違う気がする。よくわからないけど、生物としてのステージみたいなものが違う気がした。お弁当を食べ終わったら、学校中を探してみよっか? ウチは、のんちゃんのお眼鏡に適った男とやらに興味が湧いた。いったい、どんなやつだろう?
ウチの気持ちを、知ってか知らずか。のんちゃんは、ポケットの中から四角い何かを取り出した。
ウチは、のんちゃんの白い手元を二度見した。画面に表示された文字じゃなくて、本体の方───あるんだぁ~実際。正直、初めて見たよ、ガラケーって(汗)
その小さな画面に表示された文字。それはきっと、この子へのラブレターなのだろう───違った。その直感は見事にハズレる。ガラケーに表示されたのは、よくあるただのブログだった。
「あのねぇ、コレ読んで……」
どんなやつが書いてるのか? 顔を拝んでやろうと思ったのに、プロフに写真すら貼ってない。こいつの写真がどこにもない。
ウチの前のつむじが、もじもじと語り始める。
「あのねぇ、格好よくない? ステキじゃない? キュンキュンしない?」
この子、文章だけで人を好きになってる! のんちゃん、アンタぁ……それ、ヤバいって。
わからない……。
人の好みはそれぞれだ。それは、知ってる。理解もしている。でも、アンタのこれ、わからない……。
「ウチ……よくわからないけど……ステキよね」
わからないけど、口に出た。
「ほんとに? ほんとに、ほんとに、そう思う?」
のんちゃんはパッと顔を上げてうれしげだ。ウチは咄嗟に、自分の言葉を繕った。
「まぁ、うん……」
ウソだ。
明らかにウチとは好みが違う。だって、カブトムシだよ、カブトムシ。コイツの名前、カブトムシって? コイツのヤバさも相当だ。
でも、ウチは忘れない。あの時の、あの子の笑顔を。のんちゃんは、本当にうれしい時、こんな顔して笑うんだ。あの時、ウチは決めたんだ。どこの誰だか知らんけど、コイツとのんちゃん、このゆい様が、まるっとマッチングさせてやるんだって。ふたりの運命の赤い糸。このゆい様が、むすんでやるわ。
だって、ウチの名前は〝結〟だもの。
そこからが大変だった。だって、この子。恋愛偏差値ゼロだから。毎日ブログを読んで、その内容を、キャッキャとウチに報告するだけ。
でも、わかってる?
それじゃ、のんちゃんの気持ちは届かない。相手はアイドルなんかじゃない。アイツだって、ただの中学生なんだ。ウチの手にかかれば、落とすなんてチョロいのよ(笑)
待ってなさいよ、カブトムシ君。
「そんなに好きなら、コメントでも入れてあげれば? あんま、コメント書かれてないから。きっと、喜んでくれると思うよ。ウチなら、きっと、うれしいかな? のんちゃんのガラケーからでも書き込めるでしょ?」
のんちゃんのつむじの上に、ピカリと巨大な電球が光って見えた。
「なに、ナニ、何? コメントって何? もしかして、お話できるの? そんなことができちゃうの? スマホじゃないよ、ガラケーなのに? でも、なんかねぇ……お返事くれなかったらどうしよう。わたし……どうしよう」
ウチの見た限り、コメントへの返事は漏れなくすべて返されていた。〝せいこママ〟つー、ふざけた人にも返信してた。だから、無反応なんてあり得ない。
ウチはのんちゃんの背中を押した。
「なんでもいいから、書いちゃいなよ。黙ってたって、のんちゃんの気持ちは届かないって。心配だったら、ウチが先にコメントしようか?」
「だめぇ!!! はじめては、わたしなの!!!」
この子、こんな必死な顔するんだ。普段はクールなのにね。心を許した相手なら、すべての感情が顔に出るタイプ? 嘘がつけないウチのダチ公。んもぉ~、やっぱさ、バッグに入れて持って帰るよ。だって、可愛いじゃん。
のんちゃんは、大きめの付箋を取り出して、ウチの前で何かを書き始めた。ウチらはスマホに記憶させるけど、この子、メモは基本付箋なのだ。それも決まって黄色い付箋。
この子はきっと、生まれた時代を間違ってる、アナログだ。ニコニコ笑顔で、付箋の上でペンを踊らせて、ちっこい文字を書いている。
「できましたぁ」
そう言って、さっとウチに付箋を渡した。絶対に誰にも見られないように。何これ、スパイ大作戦? そして、ウチは初めて見たんだ。のんちゃんが、誰にも見せないドヤ顔を。
でも、いや、これは……あり得ない。
国語の教科書で見たような、文豪が書いたような感想文。文体が固い。漢字が多くて、可愛くもない。女の子らしさがまるでない。言葉の使い回しが与謝野晶子だ、与謝野晶子は知らんけど。こんなの、ウチでもドン引きしちゃう。この子には今、恋のアドバイザーが必要だ。
「少し……固いかなぁ~。もうちょっと、話し言葉みたいなのが……いっかなぁ。ウチね、『拝啓』つーのはわかるんだ。でもね、これこれ、最後の『かしこ』って何かな?」
ウチとのんちゃんの間で、長い沈黙が続いた……。それは、とても長い沈黙だった。
「ゆいちゃんは、知らないの? かしこ……」
のんちゃんの顔から、さっきまでの明るさが消えた。しまった! 何かを言いたいけれど、言葉が出ない。
「ねぇ、ゆいちゃん。かしこはね、女の子がねぇ、お手紙のさいごに書く言葉だよ?……書いちゃダメ?」
そう言って、ウチに向かって、つむじを見せる。なんだよ、なんだよ、その仕草。この子、いちいち可愛いじゃん。
「うーん……もっと、文章を短くして、あ、『拝啓』も『かしこも』もいらないから。〝はじめまして〟からとかでオッケーだよ。最初は面白いとか、頑張ってとか、いつも読んでますとか。そういうのが喜ばれるかな?(知らんけど)」
「わかった! やってみる(笑)」
ウチの言葉で元気を取り戻したのんちゃんは、その場でガラケーからコメントを書き込んだ。ウチは、その内容を確認することをしなかった。いや、できなかった。あの子が、何を書いたのかが恐ろしくて……。
「ブログ王様……」
投稿ボタンをポチった後、のんちゃんが呟いた。その言葉が、ずっとウチの耳に残った。
それからだよ、ふたりの関係。中一のあの日から、高三の今日まで。じれったくて、もどかしくて、イライラしながら見守ってたんだ。
───今のウチには、アイツに教えてやりたいことがある。
中三の修学旅行の夜。
あの子、ケータイの電源つけっぱなしで寝てたんだ。だからウチ、あの子のケータイの電源を切ろうとした。そしたらさ、その画面にアンタのブログが開いていた。あの子はね。毎晩、アンタのブログを抱きしめながら眠る子なんだよ。そんな子なんだよ、ウチのダチは……。
その意味が、アンタにわかる?
もしも、この子を傷つけたら、ウチはアンタを許さない。絶対に許さない。わかってる?
ねぇ、カブトムシ!
コメント