012 願い
俺のブログはたまり場だった。
俺の記事など大喜利のお題にすぎない。本文よりもコメントが長文。そんなブログも珍しい。俺のブログに旅乃琴里が降臨してから、ブログの舞台はコメント欄に奪われた。それでも俺は楽しかった。それを、みんなも楽しんでいる。だから、上出来なのである。ただ喜んでばかりもいられない。人の集まるところには、必ず悪も集まるものだ。
正義の味方、オッツーよ。ここは、お前の出番だぞ(笑)
───広告掲載しませんか?
しませんよ。
───儲かる方法を知りたいですか?
お前が儲かる話でしょ?
そんな悪徳業者からのお誘いコメントも日常だ。きっと、俺の記事も読まずにコメントを書き込んでいるのだろう。でも俺は高校生だし、面倒事に巻き込まれるのもまっぴらだ。だから、そんな誘いはスルーした。そんなコメントを見つけると、親の敵のように俺は消した。
───ずっと、あなたが好きでした。このアドレスにメールをください♡
それでも、心が揺れるメールもある。ハニー・トラップだと思っても“もしかして……”が頭をよぎる。色仕掛けに負けそうになると、いつも沈着冷静な桜木先生の出番である。ハニトラ詐欺を疑うと、俺は鬼より厳しい桜木チェックを入れてもらった。
あの子からのメッセージ。
それだけがあれば、俺はいい。俺には誰も知らない秘密があった。俺はコメントの裏側で、密かにのんとメールを交わしていたのだ。その関係が中学時代から続いている。とはいえ、メールでも他愛もない話ばかりだったけれど……。
のんからのメールは、いつだって控えめだ。「あのねぇ、〇〇ができたらいいな」とか「あのねぇ、〇〇がこうならいいな」とか。すべてが遠回しの文面だった。そして最後は「ごめんなさい」で文を閉じる。
俺にラッキーがあれば喜んでくれて、落ち込んだ時には慰めてくれる。友だちのようで、妹のようで、姉のようで、母のよう。決して表に出さない。それが、のんの裏の顔。あらゆる意味で、のんは最高の読者であった。
楽しげに、のんとコメント欄で会話する。そんな放課後クラブの仲間たちですら、この事実を知らずにいた。シロクマのぬいぐるみとブンブンちゃんのストラップ。絵を描くことと読書が好き。大好物は讃岐うどん。それは、俺とのんとの秘め事だ。
何はともあれ、のんは可愛い。
俺がじいちゃんに、ブログを閉じると告げた日。じいちゃんが俺に語った文通相手への恋心。あの時のじいちゃんの気持ちと、今の俺の気持ちが似ている気がする。あの恋バナを、今度はゆっくり聞いてみたい。ばあちゃんには、悪いけど……。
旅乃琴里がブログに降臨してから数日後。
いつものように、のんからのメールが届いた。のんもアケミと同じで、旅乃琴里のファンらしい。メールの中に『十ヶ月の奇跡』の話題が盛り込まれている。のんらしい長文メール。長い文字の列に紛れながら、のんからのリクエストを見つけた。遠慮気味で遠回し。でも、初めてのんが、俺に告げた願いでもあった。
───いつか、あなたの小説が読んでみたいの……無理を言って、ごめんなさい。忘れてね……。
のんからもらった初めてのおねだり。
俺の胸は舞い上がる。今にも心臓が飛び出しそうだ。でも、俺は執筆への返事を避けた。ブロガーだって物書きだ。ネットの隅の物書きだって、自分の実力くらい知っている。ごめんな、のん。俺には願いを叶えられない。天才、旅乃琴里とは違うのだ。今の俺には、小説が書ける自信がなかった。
ブログと小説。それには決定的な差がある。ブログは努力、小説は才能。俺には才能の壁が破れない。俺の視線が、デスクの引き出しを見つめていた。そう、あの機械……旅乃琴里のポメラがあれば、俺にも小説が書けるのだろうか? ポメラは、女神から授けられた魔法の筆記具。俺は漠然と、そんなことを考えていた……。
そして、その翌日。
俺の知らない“ゆい”と名乗る女性からメールが届いた。旅乃琴里降臨から、俺の周りが騒がしい。その時、俺は気づかなかった。それに気づくだけの力量が、あの時の俺にはなかったからだ。
のんの願いに隠れた迷いと不安に……。
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