死神チハル

ショート・ショート
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 1982年、春。

 彼女は生と死の狭間を彷徨っていた。

 午後3時。確かに信号機は青だった。手を振りながら、彼女が俺に向かって横断歩道を走り寄る。俺も手を振りながら彼女を待った。横断歩道の真ん中で、ドン! という鈍い音。同時に彼女の細い身体が吹き飛ばされた。事故である。白いワンピースと黒い路面が、彼女の血液で赤く染まった。あらぬ方向に折れ曲がった腕と足。その光景に、誰しもが彼女の死を直感した。

 ───それでも、彼女は生きていた。

 彼女の息はあったのだ。今日、俺は彼女にプロポーズをするつもりだった。なのに、ボロボロになった彼女を抱えて、俺は救急車の到着を待っている。それは、途方もなく永い時間に感じられた。そして、俺は死神と出会い、死神と契約することになる。ある条件と引き換えに……。

 病室の前、面会謝絶、冷たく響く心電図の音……。病室の前で、俺は彼女が目覚めるのを待っていた。祈るように、すがるように、いつもの笑顔を見るために。そのためなら、俺は悪魔に魂を売っても構わない。神を敵に回しても構わない。

「おい、沙織。ラ・ブームを、俺と一緒に観るんじゃねーのかよ? 早く起きないと、楽しみにしてた映画、終わっちまうぞ……指輪だって……ほら……」

 彼女の名前は沙織という。幼馴染で、同級生で、いつも明るくて優しくて、とても可愛い自慢の彼女。笑うとさ、唇から顔を出す八重歯とエクボがキュートなんだ。殺しはしない、死神なんかに渡さない。早く起きろよ、俺と映画を観るんだろ? お前からのリクエスト、なめ猫のブロマイドだって……ほら、ちゃんと買ってきたんだから。涙のリクエストなんかにするんじゃねぇ。

 歪む〝面会謝絶〟の文字を見つめながら、俺は世の中のすべてを呪った───すると、病室の扉が開き、心電図の音が大きくなった。彼女が眠る病室に、彼女の他に誰もいないはずなのに……。

 満面の笑みを浮かべて、少女が俺に向かって右手を上げた。

「んちゃ! 見えちゃってますよ……ね? お兄さん」

 何が楽しい?

 てか、お前……誰? 目の前の少女は、どう見ても女子高生だ。どうやら俺は、ショックで頭がおかしくなったらしい。俺は本能的に女子高生を睨みつけた。ありもしない幻に威嚇した。

「んちゃじゃねーよ! 誰だよ、お前は」

 則巻千兵衛の娘かよ? たちの悪い幻め、俺の前からとっとと失せろ。

「申し遅れました。私はチハル。そうですねぇ、死神とも呼ばれる存在らしいです。そして、めでたく私の初仕事が今日ですよ。初出勤というやつです」

 死神だと?

 どう見ても、チハルは普通の女子高生だった。セーラー服と赤いスカーフ、聖子ちゃんカットのメガネちび……てか、にやにや笑ってんじゃねーよ。こっちはな、お前の遊びに付き合ってる場合じゃねーんだ。

「で、ここへ何しに来たんだよ?」

「1982年4月5日。20時23分12秒。沙織さんのお迎えに参りました。もちろん、天国にですよ。ご安心ください。地獄ではありません。その前に、とあるご提案をしたのですが……沙織さんにフラれちゃいました」

 とっさに、俺は腕時計を見た。時計の針は、死神が告げた時刻の10分前。まだ、沙織は生きている。まだ、10分間の猶予がある。だからまだ……時間はある。

「沙織にした提案って?」

「その前に───お兄さんには、どうして私が見えるのでしょう? おかしいですねぇ……普通、死神は人間の目には見えないはずですが?」

「知らねーよ」

「初めてのお仕事なのにトラブル発生です! 少し待ってくださいね。上の人に報告しないと……」

 死神は右の手のひらを耳にあて、電話でもするように会話を始める。会話と言うより相談だった。上司か? それとも……神様とやらと話をしているのか?

「はい、はい、そうですか……ええ、了解しました」

 耳にあてた手のひらの指が、ゆっくりとメガネのフレームを軽く押し上げた。メガネの奥からの視線が、俺の眼球に照準を合わす───こいつは、これからロクでもないことを話そうとしている……そんな顔だ。

「おめでとうございます。そして、ご提案があります。沙織さんには拒否されちゃいました。これから、お兄さんにも同じご提案をしちゃいます。ご提案を受け入れていただければ、沙織さんの寿命は延長されます。予定では86歳まで生きられますよ。私どものご提案、受けますか? 受けませんか?」

 俺の答えは決まっている。

「受ける!」

 すると、死神は意外な表情を見せた。

「えー? 即答でしたね。話も聞かずに受けちゃうんですか? バカですか?」

「当たり前だ。沙織が……俺の彼女のためなら、この身を差し出しても構わない。命が欲しけりゃ持ってゆけ」

「純愛ですね、純愛ですよ。すばらしい! 私は今、猛烈に感動していますよぉ!!!」

 お前、今にも消える魔球を投げそうだな?

 死神のビジュアルが女子高生なものだから、どうも勝手がよろしくない。返事にもリアクションにも困ってしまう。死神なら死神らしいスタイルってもんがあるだろうに……ドクロの仮面とか、大きな鎌とか……定番の姿ってものがあるだろうに……。とにかく、沙織の命が救えるのなら、俺は何だって構わない。

「では、特異点に手を加えますね」

 チハルはマクドナルドで友だちと話しているような雰囲気だった。マックシェイクを吸うように、一度、大きく深呼吸……。

「そこは、こうで、こうやっちゃって……っと! へへへ」

 だから、笑うな! 緊張感がまるでない。

「チハル、特異点って?」

「沙織さんから、お兄さんへの気持ちのすべて消します。記憶をまるごと消しちゃいます。つまり、今日のデートはなかったことに。男女交際もゴハサンです。つまりは、そういうことですよ」

 死神は、人の人生をそろばん教室みたいに言うんだな。

「そんなことで、沙織は助かるのか?」

 俺は少しホッとした。こいつに殺されるのかと思っていたからだ。こいつなら、笑いながら俺を八つ裂きにするだろう。きっとそうする。そんなやつだ。

「構いませんよ、お兄さん。けれど、沙織さんは断固拒否しましたけれど。お兄さんとの馴れ初めすべて消えるなら、このまま死んだ方がマシだと言われました。ものすごく怖い顔で言われました。すごく怖い顔でした。一応、これでも死神ですよ。まぁ、新米ですけれど。晴れの初仕事で心が折れるとは思いませんでしたよ。最悪の気分です。お兄さんの彼女さんは、そう言っていましたけれど、そんな簡単に受けちゃってもいいんですか? 沙織さんに恨まれちゃいますよ?」

 俺と取引でもするような言い草だな。もしかして、チハルは死神ではなく悪魔なのかもしれないな。沙織が生きてくれるなら、死神だろうが悪魔だろうが、この際、俺にはどうでもよかった。

「沙織の気持ちはとてもうれしい。そして、今でも沙織を愛してる。これらかも、ずっと沙織だけを愛し続ける。だから、チハルの条件を飲もう。さぁ、やってくれ」

「人生の〝とらばーゆ〟って感じですね、お兄さん」

「上手いこと言ってんじゃねーよ!」

「あー、もう、時間がありませんね。では、目を閉じてください。3つ数えて目を開けたら、それで終わりです」

 簡単なんだな……。

 俺は静かに目を閉じた。1、2……沙織との想い出を噛みしめながら数を数える……そして……3。ゆっくりと目を開けると、俺は横断歩道の前に立っていた。横断歩道の向こう側、笑顔で手を振る沙織が見えた。さっきまでのは何だったのか? あれは予知夢だったのか? それとも、悪い夢なのか? 信号機が青になり、沙織が俺に向かって駆け寄った。

「あぶない!!!!」

 とっさに俺は叫んでいた。

 道ゆく人々の視線が俺に集中する。沙織は俺の横を通りすぎ、見知らぬ男の腕をつかんだ。そういうことか……俺はすべてを理解した。

 幸せそうな沙織の顔を見た後、どうやって帰ったのか? まるで記憶が残っていない。ふたりで過ごしたアパートに、沙織の形跡はどこにもなかった。残り香すら、どこにもなかった。これからどうやって生きてゆこうか……。もの思いにふけっていると、玄関ドアを叩く音───沙織か?

 期待に胸を膨らませ、玄関ドアを俺は開く。すると、そこにはチハルの姿。目の前に死神が立っていた。

「お兄さん、これからよろしくお願いしますよ」

「何を?」

「決まってるじゃないですか? 私をですよ、私です(笑)」

 捨て猫を拾って帰るのとはわけが違う。俺に構わず、チハルは話を続けた。これは決定事項のような口調だった。

「これは、神様からの言いつけです。死神を見た者は、その場で死ぬか、死神と共に暮らすからしいです。私も人を殺めるのに抵抗がありますからね。ここは、私と同棲ということで妥協していただけませんか?」

「勝手なことを……」

 殺すか? 同居か? これまた、究極の選択だな……。

「それと私、処女なんです! ABCも知りません!」

「そんなの、こっちも知らねーよ!!」

「お兄さんは、童貞なんですね……」

 憐みの目で俺を見るな!

 急に何てことを言い出すんだ? 子ども相手にやるわけねーだろ? それとも最近の若いやつらは、そんなことになっているのか? そんなの、金八つぁんが泣いちまう……。

「だから、ファーストキッスもファーストタッチもまだなんです。私、男子と手を繋いだ経験だってありません。正真正銘の生娘です。つまり、私に指一本でも触れたらお兄さん。ロリコン野郎は、即刻、地獄行きですよ(笑) おさわりはご法度デス、店長に言いつけますよ!」

「誰がガキなんかにさわるかよ!!!!」

 てか、神様の他に、お前の背後には店長ってのもいるのか?

「お兄さんが、ロリコン糞野郎じゃなくて、よかったです、へヘヘ」

 その日から、俺と死神との奇妙な共同生活が幕を開けた……。82年から始まった死神との日々。それを、俺が語る日がくるかもしれないし、俺の代わりにチハルが語るのかもしれない。今のところ、それは誰にもわからない……。神のみが知るというやつだ。それを考えても仕方ない。沙織を胸に今を生きよう!

「じゃぁ、そうするか……。ところでお前、腹減ってないか?」

「その言葉を待っていましたよ。私の胃袋は、お肉が食べたいと言っていますよ。へへへ」

 今日は、沙織の命を救えた記念日だ。すき焼きでも作ってやるか……。すき焼きをチハルは喜んで食べた。いつの時代も、高校生には肉なんだなぁ……。

 そして、俺たちの別れの日。

「2024年3月2日、午後7時58分23秒。これから、あの世の説明を始めます。ちゃんと聞いてくださいよ、あちらへ行く準備ですからね。あっ……それと、おめでとうございます! 私、おじさんで……いいえ、お兄さんで1000人目のお迎えです。今日はアニバーサリーというやつですね。へへへ」

「人の命日を記念日にするなっ!」

 俺の人生の最後の日。チハルは俺の枕元で処理を始めた。長い間、女子高生の姿のままの死神と暮らしたせいなのだろうか? 俺には死への実感がまったく湧かない。もうすぐお迎えがくるというのに、いつものように会話をしている。

「1000人目? だったらさ、何か特典でもあるのか? もしかして……〝チハルのおっぱいが揉める券〟くれるとか?」

「ありませんよ、そんなのっ!」

 あの日の沙織と同じ病院で、あの日のことを思い出す。沙織は幸せだったかい? 俺の決断は正しかったかい? 沙織が幸せなら、それで俺の人生は満足だ。

 目を閉じて、そんなことを考えているうちに、手慣れたチハルの説明が終わった。

「さぁ、行きますよぉ」

 その声に目を開けると、チハルが俺のベッドの上に浮いている。

「おめぇ、随分とキャリアを積んだな……」

 これが現世で発した、俺の最後の言葉になった。

「ええ、それなりにですがね。へへへ」

 俺の何かが、病室の天井に吸い込まれる感覚が少し怖い。俺は人生初のジェットコースターに乗る前の気分になった。

「特別ですよ、お兄さん。これが、私のファーストタッチです(笑)」

 俺の心臓が止まると、チハルが俺の手をキュッとつかんだ。死神の手は……いや、チハルの手は、とても柔らくて優しかった。

 ☆☆☆☆☆☆☆☆

「どうじゃ? これが、お主がやろうとしている〝世線ずらし〟の結末じゃ。この男は、ハッピーエンドにも聞こえるじゃろう? じゃがな、この者は生涯愛する伴侶とは出会えんかった。年老いて独り寂しく死んでいったわ。チハルともそれきりじゃ。世界線をずらした代償などこんなものじゃ。幸せにはなれんかった。それでも、お主はそれをやるのか? もっと残酷な結末を迎えた者もおるぞ」

「いいえ。最愛の人を救えたのですから、彼には後悔などなかったと思いますよ」

「ほう、お主。初めて声を出しおった」

 産神は少年から強い意志を感じた。 

「話す必要性がなかったからですよ。産神と死神。僕はその情報が欲しかった。余計な口出しは相手の口を閉ざします。あなたの言う〝世線ずらし〟と僕のそれとは少し違いますけれど」

 産神は、少年の言葉に何かを察したようであった。

「ならば、ひとつ教えてやろう。この世は辛く苦しい修行の世界じゃ。この世には未熟者しかおらぬからの、争いごとが絶えんじゃろ? 魂を冬の世界へ産み出す存在が産神チフユ。魂を春の世界へ迎える存在が死神チハルじゃ。そして、我らは共に大罪人の成れの果て。神から記憶を消されておるから、どんな大罪を犯したのかは知らぬけどな。もしかしたら、お主も我らと同じ穴のムジナかもしれぬのう……」

 産神が試すようにニヤリと笑う。

「かもしれませんね……そうでもあり、そうでもなし(笑)」

 少年は静かに微笑み返す。

「天下の万物は有から生じ、有は無から生ずとな? もうよいわ……お主の好きにすればよい。お主の世線ずらしの果てにあるものは、天国か、それとも地獄か? だが、お前の目指す世界線があればよいのぉ。機会があればまた会おう───なぁ、サクラギよ」

 愛しくも懐かしい……少年が夢にまで見た少女の姿は、桜の花びらに姿を変えて瀬戸の海へと消えていった。

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