白い月

ショート・ショート
土曜日(ショート・ショート)

───もう、一年が経つのね……。

 明るくて、賢くて、気遣いがあって、可愛らしい子……。

 ぽっかりと空いたベッドに、あの子の姿を思い出す。看護師の私にとって、生と死は日常の出来事だけれど、ふとした瞬間に思い出す。あの子の笑顔と、あの子との会話を。あの子は娘の友達だった。看護の業務に私情は禁物。それは十分理解している。でも、あの子と接するたびに、娘とあの子が重なって見えた……。

───お月様。

 あの子には好きな人がいた。彼をお月様と呼んでいた。こんなに美人さんなのだから、彼氏候補なんて、あの人だけは無いでしょう? もっと身近な男を選びなさい。近くで、あなたに寄り添ってくれる人を選びなさい。残された人生を、その人と楽しみなさい。あの子の話に耳を傾けながら、いつも私はそう考えていた。相手はブログを書いているだけの人。それ以外、何も知らない。本当の名前すら知らないからお月様。そんなの、あの子にそぐわない。見ず知らずの赤の他人が、手の届かないあの人が、あの子に何をしてくれるというのだろう……。私には、それが不憫に思えた。

 ただ、お月様を語るとき、あの子の大きな瞳がひときわ輝く。最初は、好奇心からだと思っていた。でも、違った───本当に彼が好きなのね。それだけは、誰の目からも明白だった。だって、普段はしとやかなのに、彼の話になると悠長に話をするものだから。お月様の話をしている彼女を見ると、明日にでも退院できるような錯覚すら覚えてしまう。けれど、現実は残酷だ。あの子の命の灯は……

 細い指に包まれたスマホ画面は彼のブログ。あの子は、そのまま昏睡状態に陥った。命の灯が消えかけたあの子に、私はお月様のブログを読み聞かせた。あの子の容態は医学の上では意識不明。何も見えないし、反応もない。けれど、耳は聞こえているかもしれない。だから、私はブログを読んだ。時間の許す限り新しい記事を読み聞かせた。去年の今頃の出来事だった。

───ほら、戦闘機のプラモ作ったでぇ~(笑)

 女の子に戦闘機って……そんな約束でもしていたのかしら? それとも別の読者との約束かしら? その記事を読み聞かせた翌日、あの子は昏睡状態から目を覚ました。意識もはっきりしている。主治医の検査が終わると、細い指でスマホを抱えてニコニコしている。宝箱のフタでも開くように、スマホの画面をタップしている。昨夜まで、生死の間を彷徨っていたなんて思えない。でも……よかった……。私はホッと胸を撫でおろした。

「お楽しみ、お楽しみ♪」

 そう言いながら、寝ている間に投稿された記事を読み始めた。そして時折、笑顔を見せる。とても不思議な感覚だった。これでも長年、看護師としてのキャリアを積んだ私だ。だから、同じ状況にも慣れている。その結果も明白だった。なのに、この子は目を覚ました。薬の力ではなくて、言葉の力? それとも、続きを読みたい気持ちから? 主治医の先生も首をかしげた。言うなれば、奇跡だった。

 今でも夜勤の合間に彼の記事を読んでいる。あの子の欠片を探しながら。その文脈に、いつもあの子への想いがあった。誰にもわからないように、隠すように。彼のブログを読むたび私は思う───ひと目だけでも、ふたりを会わせてあげたかったと。

 そんなことを考えながら、あの子が寝ていたベッドに想いを馳せた。真っ白なシーツに反射する太陽の光がまぶしく見えた……。想い出話はこれで終わり。さぁ……私は、私の仕事を全うしないと。今日も私は忙しい。患者さんたちが待っている。

「ねぇ、ねぇ。あの人、お昼からずっとあそこに座っているのよ。何だか気持ち悪くありませんか? 不審者ですよ、きっと不審者!!!」

 スタッフの声に、私は現実の世界へと引き戻された。

 窓から指をさしながら、若いスタッフが声を荒げた。病院に不審者が訪れることは珍しくない。それらしき人物を発見したら、事務長経由で警察に通報することになっている。スタッフのひとりが受話器の前でスタンバった。

「事務長さんに連絡しましょうか?」

 私は窓から不審者らしき人物を確認した───赤いリュック……。どういうわけだか、それが私には気になった。あの子と同じ赤いリュック……。いいえ……あれは、あの子が退院したら使うはずだった……

「ちょっと待って、私が話をしてみます」

 私は受話器を持つスタッフを制止した。そうしなければ、いけない気がした。

「それはマニュアル外です。危険だし規則違反ですよ?」

 スタッフのひとりが私に詰め寄る。

「あぁ……あの人……以前、入院していた患者さんに似てるの。だから、様子を見てきます」

 とっさに私はウソをついた。

 病院の前に小さな花壇が設置されている。あの子も花が好きだった。長かった入院生活の間、あの子はそこに季節の種をまいていたっけ……。

 一年で最も寒い二月なのに、今日は日差しが暖かい。そう、小春日和とは、今日のことを呼ぶのだろう。ベンチでうつむく青年に、私は優しく声をかけた。声をかけたのは好奇心。優しくはコンプラからである。軽はずみな言動で、病院の評判を落としてはいけない。

「こんにちは。体調でもお悪いんですか? 歩けますか? 先生をお呼びしましょうか?」

 青年は花壇に視線を向けている。年格好なら娘くらいか?

「……すみません、大丈夫です。こちらへ研修で来たのですが、お恥ずかしい話……土地勘がまったくなくって(汗) 知人が住んでいた場所がこの辺りで、ふらふら歩いていたら、この病院が気になったんです。ご迷惑でしたね……謝ります」

 静かに青年は謝罪した。けれど、視線が花壇から動かない。とてもそれが不思議に思えた。

「花壇に何か?」

 私は訊いた。

「そこのタンポポの葉っぱに……ほら、あそこ。てんとう虫がいるんですよ。元気に動いています。今日は暖かいからでしょうね」

 てんとう虫? 何時間もてんとう虫を見ていたというの?

「あら、ホント(笑) 今日は暖かいですからねぇ……てんとう虫、お好きですか?」

 社交辞令である。視線を感じて振り返ると、ナースステーションの窓からスタッフたちが、神妙な顔つきでこちらを見ている───あまり話している時間も無さそうだ……。

「ある人が好きだったんですよ、てんとう虫。ほら、てんとう虫って、害虫を食べてくれるじゃないですか? その人……てんとう虫を集めては、自分の畑に放していたそうなんです。ホント、変わった人でした……」

 ……人でした?

───てんとう虫は大切なの。悪い虫を食べてくれるの。だから大切なの、大事なの(笑)

 ちょっと待って……あの子の記憶が、私の中で弾け飛ぶ。

「近くに来ていると、その方にご連絡をしてさしあげれば? きっと、お喜びになるでしょう?」

 私は訊いた。いや、鎌をかけた。

「えぇ……そうですよね。そう、僕は彼女の住む街に来ました。でも、彼女は遠くに行ってしまった……もう、手の届かない遠い所へ。あ、すみませんね、変な話をして……」

 この青年、お月様だ。そう私は確信した。

「お若いんですから、おきばいやんせ~(笑)」

 私は二度目の鎌をかける。おきばいやんせ……それは、あの子が誰かを応援するときに使う言葉。それに、彼の肩がビクンと揺れた。

「それは、この地方の方言でしょうか? いえ……それが、彼女の口癖……いや、書き癖だったもので……すみません……」

 〝おきばいやんせ〟は、あの子だけのオリジナル。特別な人だけに〝お〟を付ける。ブログの彼で確定だ。それはそうと、何も知らずに病院まで来たというの? 目の前の現実に、私は動揺を隠せない。

───ピーピーピーピー♪

 私のポケットの中で、院内専用スマホが鳴り響く。

「大丈夫ですか? そちらへ行きましょうか? あいつ、不審者でしょ?」

 スタッフからの連絡だ。

「大丈夫よ。この人、私の知り合いでした。少しお話してから戻ります。何かあったら連絡してね」

 私はスマホを切り、彼と話を続けた。

「よく来てくれましたね、お月様。常々、お話を聞いていました」

 そう、あなたは、あの子のお月様。

 彼の目から涙があふれた。私の直感は正しかった。そして、私は困ってしまう。私の涙腺も壊れそうだ。だって今日は、あの子の……。目から涙が零れぬように、私は青空に顔を向けた。

「ねぇ、お月様。少しだけ、私とあの子の話をしませんか? 知ってる? あの子、行ってみたかった島があるの。とてもきれいな島なのよ……」

 私が向けた視線の先で、白い月が微笑んで見えた。

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