産神チフユ

ショート・ショート
土曜日(ショート・ショート)

 人里離れた展望台。

 そこは少年のお気に入りの場所である。少年はそこで本を読むのが好きであった。とある春の日。桜の木元のベンチ。そこに腰を下ろして古文書に目を通す。その鋭い眼光は、何かの糸口でも探すかのようであった。満開の桜の花と穏やかな春の日差し。頬をかすめるそよ風が、静かに少年を包み込んでゆく……。

 何かの気配に少年は気づき、顔を上げると少女の姿があった。それは、愛しくも懐かしい……夢にまで見た少女であった。少年は理解していた。これは、ありもしない現実であると。そして思う……きっと、あのお方に違いないと。

「あなたは、チフユさんですね?」

 静かに少年は少女に問いかけた。それは、幻に話しかけるかのようであった。

「ほう……この時代。こんな狂った時代に、わしの姿が見える人間がおるとはのう。これはこれは珍しい。はて? 何年ぶりじゃろうな……100年ぶり、それ以上じゃったか? 恩師か? 親か? それとも恋人か? お主に、わしがどのような姿に見えておる?」

 少女の声は、少年の知る声であった。小鳥のさえずりのような、あの日と同じ丸い声。赤く光る唇から流される試すような口ぶりは、少年の知る少女とは別人であった。

「ええ、お噂はかねがね……。それとも、産神うぶがみ様とお呼びしましょうか?」

 少年は全く動じない。少女が神の化身だと知っていても。

 産神……それは、その名のとおり人を産む神である。この世に産まれ出る人間は、すべてが産神によって現世に羽ばたく。それを見守るまでが産神の役目。その名は広く知られているが、チフユの名を口に出す者は少ない。その名を耳にしたのは、産神ですら実に300年ぶりであった。

 少年の言葉に、少女は少年の何もかもを理解した。そして、もの珍しそうに話を続けた。

「そっか、そっか。お主はわしをチフユと呼ぶか。ほう……お主は時を繰り返しておるのだな。これで何度目の人生を歩んでおる?」

「……」

 少年からの返事はない。

「お主は、随分と変わり者よのう。転生を放棄して、時を繰り返しながら、ずれた世界を旅しておるわ。もっと楽に生きられように……で、何が目的でここにきた? 何をしに、この世界へやってきたのじゃ?」

「……」

 やはり少年からの返事はなかった。

「何も話したくなければ、それでもよいわ。が……しばし、わしの暇つぶしに付き合え。久々に会った人間よ。ならば、この話を知りたくはないか? お主が会いたいのは、わしではなくてチハルであろう?」

 少女の言葉は的を射ていた。少年の瞳に光が宿る。

「なにゆえ、縄文の世は1億年も続いたのか? なにゆえ、信長は光秀に殺められたのか? なにゆえ、この国の長は無能なのか? わしは何でも知っておる。死神の話ものぉ……」

「死神……」

 少女は少年の動揺を見逃さない。

「まぁ、よい……。可愛い我が子よ、お主にチハルの話をしてやろう。わしと真逆の存在───死神の話をの。チハルと会えるのは、生と死との間をさまよう人間だけじゃ。それも、神に選ばれた人間だけじゃ。どんなに偉くとも、どんなに賢くとも、どんなに富があろうとも。心貧しき人間は、死に際に死神にすら会えぬのじゃ」

 少年の心を弄ぶかのように間をおいて、少女は続きを語り始める。

「さっきも言うたように、死神と会えるのは神に選ばれた人間だけじゃ。なのにその者は、健全な状態で死神と対峙しおった。このわしとて、これまで3度ほどしか耳にせぬ珍事じゃった。これもまた、神の気まぐれなのであろうがの……」

 少年は静かに少女の話に耳を傾けている。

「お前は知っておるのか? なにゆえ、わしの名がチフユじゃと。人を産むわしが千の冬で、死の瀬戸際に現れる死神が千の春と呼ばれておるのか? 知らぬのならば、それと共に話してやろうぞ。お主の探し物はそれじゃろ?」

 少年は、無言で少女の顔を見つめた。少女は漆黒の瞳で少年を見つめ返した。その眼光は、何もかもを見通すかのような、黒い輝きで溢れていた。常人ならば目を合わすことすら叶わない。神々しい光でもあった。

「では、こんな話はどうじゃ。お前がこの世に産まれる以前の話じゃ。人の暦で言うなれば、1980年の出来事じゃ。それはの、この世界の線がずれた年じゃ。かなり大きくずれた年じゃ。バブルとは副反応じゃ。拒否反応とも言えるがのう。あの者も、お主と似たような存在じゃろうて。イレギュラーとでも呼ぶのかのう。お主と同じで、神の気まぐれが生み出した異物じゃった……」

 少年の隣に腰かけて、少女は過去の物語を語り始めた。母親が、我が子を諭すかのようにゆっくりと。

「生きた人間が死神を見ることは決してできぬ。それでも、あの者はチハルを見た。その意味……お主も分かろう? ならば、その結末まで知っておるのか? 知らぬのなら、お主がやろうとしている世線ずらしの意味を知るがよい」

 少年がゆっくり頷くと、少年と少女の間を桜吹雪が吹き抜けた。この先は、また別の青年と死神との物語。春の物語から冬の物語へ。少女は淡々と語り続ける。美しくも切ない……それは幸せの裏返し……。

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