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後ろの席の飛川さん〝032 無名とナナシ〟

カフェ・邂逅かいこうには、ふたつの扉がある。ひとつ目の扉を開くと、カフェカウンターのような受付がある。そこで、会員証を提示して、ようやく邂逅への扉が開くのだ。「黄瀬きせ君。ここのルールは三つだけだ。ここから先は、飲食禁止、無言、本は大切に。それだけだ、守れるね」「はい」 指示はないけど、スマホの電源を切るボクである。「いい子だ。飲み物は、ここで注文して、ここで飲む。飛川ひかわ君から預かっているから、お代はいらないよ。何か先に飲むかい?」 ボクはメニューを受け取った。「いえ、後でいいです」「じゃ、読書を楽しんで。あたしゃ、ここにいるからね。用があったら、呼ぶんだよ」「はい」 ゆっくりと、ボクは邂...
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後ろの席の飛川さん〝031 〝生〟の文字には、百五十以上も読み方があるそうだ〟

強き人がボクに問う。「〝生〟の文字には、百五十以上も読み方があるそうだ。だけど〝死〟の読み方はひとつだけ。キミに、その意味が分かるかい?」 その言葉が刃やいばのように、ボクの胸に突き刺さる。何よりも重い問いだった─── 七月最初の金曜日。放課後のチャイムに、わくわくしているボクがいた。「ねぇ、きいちゃん」 後ろの席の飛川ひかわさんは、いつも笑顔で問いかける。「放課後は?」 それは言えない。絶対に言わない。ボクは咄嗟に嘘をつく。「本の予約をしているので、本屋さんに取りに行きます」 ボクの目が泳いだか? 飛川さんが、訝いぶかしい目でボクを見る。「それ、誰の本?」 警察から職質を受ける気分は、こんな...
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後ろの席の飛川さん〝030 オッツーが、足りなくて……〟

今日は、全国的に月曜日である。「……」 後ろの席の飛川さんは、ぐったりしていて、今朝は元気がなさそうだ。昨日、尾辻さんとはしゃぎすぎて、エネルギーが切れたのか? ボクは、飛川さんに問いかけた。「おはようございます、飛川さん。昨日はありがとうございました」 飛川さんは無反応。机に突っ伏して、ぐでっとしている───あの後で、尾辻さんと喧嘩した? 空蝉うつせみのような彼女が心配になるボクである。「オ……オッツーが……」「尾辻さんが?」「……キレた」 キレた? つまり、尾辻さんが、怒ったってこと?「は?」「オッツーが……」 飛川さんが、同じ言葉を繰り返す。「はぁ」「足りないの」 なんだそれ? 怪しい薬...
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後ろの席の飛川さん〝029 トビちゃん、バーベキューに散る〟

これは、松坂ですか? 飛騨ですか? 半分に切ったドラム缶。その中で、備長炭びんちょうたんが燃えている。炭火の上には、大きな大きな網があり、整然と、それでいて丁寧に、びっしりと並んだ肉の列─── 飛川ひかわさん。これ、スマホで撮ってもいいですか? その豪華さに、呆気にとられるボクである。 日曜日の昼下がり。今日の作業を終わらせて、桃畑はバーベキュー会場さながらだ。参加者は、ボクと先生。そして、飛広コンビの四名である。ボクとしては、早川さんの不参加が残念だ……。「きいちゃんが、今日の主役よ!」 飛川さんの話では、これはボクの歓迎会。大量の高級肉と飲み物は、ゆきさんからの差し入れだそうだ。こんなこと...
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後ろの席の飛川さん〝028 演歌は愛する人へのメッセージ〟

今日のメンバーは、飛川ひかわさんと、麩菓子ふがしのヒロミさんと、シゲじいさんと、ハルカさん。そして、ボク。総勢五名で摘果に挑む。「黄瀬きせです。中一です。よろしくお願いします」 ボクの挨拶に「麩菓子おいしかった?」「挨拶ができるのか。偉いぞ、小僧!」「あら、孫と同級生ね」 その反応は様々だ。「月読つくよ、いっきまーす!」 桃の根元に脚立を立てると、忍者のように梯子を登った飛川さん。手慣れた手つきで桃の実を落としてゆく。それを合図にするように、お年寄りたちが腰のラジオの電源を入れた。いくらボクでも、ラジオくらいは知っている。けれど、ラジオの音を耳にしたのは初めてだ。「高松まつり事務局では、今年も...
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後ろの席の飛川さん〝027 広瀬さんの変身と蒸着の違いとは? 〟

桃畑の二日目は、心身ともに最悪だった。全身がだるくて痛くて……もう、お家に帰りたい。「きいちゃん、おはよう!」 脚立を担いだ飛川ひかわさんが、ボクの前を駆けてゆく。昨日といい、今日といい。彼女は人類最強の生物か?「この桃をAとします……」 広瀬さんは、お年寄りたちの輪の中で、桃の摘果のレクチャー中だ。これ、毎回やってるの? にしても……日差しが痛い。 今朝の天気予報では、全国的に今年最高気温になるらしい。立っているだけでも汗ばむ陽気だ。いそいそと、ボクは桃の木陰に避難する。倒れでもしたら、割に合わない。熱中症への恐怖心がそうさせた。「きいちゃーん!」 広瀬さんのレクチャーが終わると、ボクに駆け...
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後ろの席の飛川さん〝026 イチゴを捨てるバカはいない 〟

真っ赤な夕陽に照らされた、高い高いのシルエット。 広瀬さんの写真には、幼き頃の飛川月読ひかわつくよが写っていた。尾辻さんの肩の上、桃の実に袋をかける飛川さん。夕焼け空と黒い影。その幻想的なコントラストが、ボクの想像力を刺激する。「オッツー、右」「あいよ」「もうちょい、上」「あいよ」 仲睦まじい、ふたりの姿が目に浮かぶ。父娘、兄妹、恋人……そして、未来の夫婦。このふたりには、すべての言葉が当てはまる。きっと、前世も、現世も、来世だって……写真が放つ幸せのオーラが、ボクをそう思わせてしまうのだ。 ふたりは、この夕暮れを何度も繰り返したのに違いない。繰り返す幸せ……その言葉と共に、彼女の自己紹介を思...
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後ろの席の飛川さん〝025 誰にでも、特別な木があるものだ〟

飛川ひかわさんのレクチャーが終わると、老人たちから拍手が湧いた。───オッツーがね。オッツーがさ。それは、オッツーなのだから……。 ボクには惚気のろけにしか聞こえない。 それなのに、誰もが良質な恋愛映画を見終えたような顔である。目頭を押さえるおばあさんに、ウンウンと頷うなずく飛川さん。その笑みに、ペテン師だなとボクは思った。広瀬さんの薄い表情を鑑みれば、彼女も同意見のようである。「ところで月読つくよちゃん、専用の脚立は?」 そんなアイテムがあったのか? 麩菓子ふがしをくれたおばあさんが、思い出したように話題を変えた。「もうないの……」 しょぼんとして、がっかり顔の飛川さん。その脚立、壊れたの?...
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後ろの席の飛川さん〝024 素手で握ったおむすびは、魔法の調味料の味がする〟

桃畑の昼下がり。 桃の木陰に敷かれたシートの真ん中で、おにぎりを頬張る飛川ひかわさん。その隣でゆっくりと、二個目のおにぎりに手を伸ばす広瀬さん。「ふたりとも、やってんねぇ~」 ふたりの前に先生が座ると、そっとおしぼりを手渡す早川さん。その光景は、お花見を楽しむ家族のようだ。ボクはというと、シートの前に立ちすくむ。なんだか場違いな気がしたからだ。 こんなの、大縄飛びと同じじゃないか。あの輪の中へ入るタイミングがつかめない。「さぁ、さぁ。黄瀬きせ君も、座ってください。三縁さよりさんの隣にどうぞ」 ボクに向かって、手招きをする早川さん。なんて優しい人なんだ。それに比べて飛広とびひろコンビは、おにぎり...
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後ろの席の飛川さん〝023 ボクに女子の気持ちは分かりません〟

ボクに冷たい視線を浴びせる広瀬さんとは対照的に、先生はなんてお優しい人なのだろう。桃の木の根元に置かれたクーラーボックスを指さして「黄瀬きせ君も、好きなのどれか選びなよ」 ボクが、勝手に桃畑を抜け出したことには触れもせず、そう言ってくれるのだ。「先生、ありがとうございます」 クーラーボックスの蓋ふたを開くと、中にはコーヒー、紅茶、麦茶、スポーツドリンクにジュース……様々な飲み物が入っている。 ヘビ騒動でカラカラに乾いたボクの喉は、迷うことなく麦茶を選ぶ。それを一気に飲み干すと、ボクは地面に腰を下ろした。休憩だ。「さ、やろ」 間髪入れずに、広瀬さんの声がする。「え?」 いくらボクが若くても、少し...
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後ろの席の飛川さん〝022 好きな人とふたりきりになるのは難しい〟

「ねぇ、きいちゃん」 クラスメイト飛川ひかわさんは、いつも笑顔で問いかける。飛川さんは、ボクを引きこもりの世界から、外の世界へ連れ出してくれた恩人だ。ボクは彼女に感謝の気持ちしかないのだが、今は恐怖だけしか感じない。 だって、そうだろ? ヘビを振り回しながら、自分に突進する少女がいれば、怖くてその場に立ちすくむ。誰だって、そうなるさ。「黄瀬きせ君。しっかりして、逃げるのよ」 広瀬さんの口数の多さが、ことの重大さを物語る。「きぃーちゃーん! にゃはははは」 その一方で、走るゾンビ化している飛川さん。ボクとの距離がドンドン縮む。「飛川さんが、どうしてヘビを?」 逃げる前に、それだけは知っておきたい...
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後ろの席の飛川さん〝021 誰にでも、口に出せないわけがある〟

ふたりきりだ…… 広瀬さんと、山の中でふたりきり。もしこれが、男子生徒の耳に入れば、どんなに羨むことだろう。だが、現実はそうでもない。むしろ逆。「黄瀬きせ君。これを着て」「うん」 手渡されるままにヤッケを着る。ナイロン製の薄手の生地で、胸にポッケがついている。「黄瀬君。これつけて」「はい」 手渡されるままに手袋をつける。ナイロン素材で、手のひら側には天然ゴムがコーティングされている。「黄瀬君。これ、かぶって」「え?」 頭からフェイスマスクをすっぽりかぶる。冷やっとして、かぶり心地は悪くない。でも、必要性を感じない。「じゃ、これ最後」 やっぱり大きなゴーグルだ……なんだこれ? こんなのアメコミヒ...
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後ろの席の飛川さん〝020 友だちを誘うなら、何をするのか伝えましょう〟

五月、最後の金曜日。 太宰で攻めるか、それとも三島か。最近、川端文学にも興味湧く。この休みを利用して、古本屋めぐりもしてみたい。休日の読書に想いを馳せる。それが、ボクの楽しみなのだから、自然に顔がにやけてしまう……。「ねぇ、きいちゃん」 後ろの席の飛川ひかわさんは、いつも笑顔で問いかける。至福の時間を邪魔されたボクは、悟られぬようにムッとした。 にしても……最近、釣りでもしたのだろうか? すっかり小麦色の肌になっちゃって。太陽の光を体に浴びて、パワーアップでもしたかのようだ。ただでさえパワフルなのに、飛川さんの戦闘力が増している。「お休みの日。きいちゃんは、何をしているの? やっぱり、塾とかに...
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後ろの席の飛川さん〝019 トイレで芽生える友情もある〟

生理現象とは不思議なもので、時間の法則性があるようだ。三時限目の休憩時間。決まってボクはトイレに駆け込む。明光中学に入学してからというもの、これがボクの習慣になっていた。 隣のクラスの中原君も、ボクと同じサイクルで生きているようだ。毎日のように、トイレで彼と顔を合わすけれど、言葉を交わしたことは一度もなかった。 まぁ、別のクラスの生徒である。率先して、ボクから話しかける相手でもない。「なんでやろ? モテないなぁ~」 これが彼の口癖だ。いつも前髪を弄りながら、鏡に向かって呟いている。まるで白雪姫の継母ままははのよう。気持ち悪いとボクは思った。 獲物を狙うトラの目で、津島君を追う姿はそこになく、モ...
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後ろの席の飛川さん〝018 ウィスキーボンボンも、食べすぎに注意しましょう〟

酔っぱらった美少女の隣で、飛川ひかわさんの声が荒れていた。スマホに向かって吠えている。「ばあちゃん! 忍に奈良漬け食べさせたでしょ。どうして、そんなことするのかな。今、こっちは大変なんだから!」 飛川さんのスマホから「ごめんねぇ」の声が漏れている。なんか……おばあちゃん、ごめんなさい。ボクは、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。 スマホを切ると、真っすぐボクを見つめる飛川さん。その顔から、いつもの幼さが抜けている。「忍の両親はね、岡山の人なの。だから、忍は岡山弁が抜けないの。方言が恥ずかしいってね、サヨちゃんと上手く話せなかったの……。忍はね、心を開いた人だけに、本当の自分を見せる子なの。私の知る限...
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後ろの席の飛川さん〝017 おいしい奈良漬けは、食べすぎに注意しましょう〟

前の席の広瀬さんは、ミステリアスな美少女だ。ポーカーフェイスで、ほとんど言葉を発しない。 ただ、例外もある。 コソコソと早口で、飛川ひかわさんだけに耳打ちをする。そして、屈託のない笑顔を見せるのだ。このふたり、どんな会話をしているのだろうか? ボクの悪口じゃないことを祈る。「ねぇ、きいちゃん」 後ろの席の飛川さんは、いつもの笑顔で問いかける。「放課後は、真っすぐ帰るの?」「ええ、そのつもりですけれど? 中間テスト期間は、海洋生物研究会もお休みだと聞いていたので……」 まさか……お休みだから、釣りに行こうとは言うまいね?「だったら、うちに寄ってくれる?」 飛川さんの家は学校に近い。行くのは別に構...
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後ろの席の飛川さん〝016 七つの海は、女の涙でできている〟

ボクへの誕生日プレゼントを発端に、姉ちゃんの初恋の相手が、桜木さんだと発覚した。でもそれは、ボクの想定の範囲内。うどん県は、日本で最も狭い県である。讃岐の田舎じゃ、あり得ないことでもない。むしろ、その逆。コミュニティは小さい。よくある話だ。「姉ちゃん、それから?」 姉ちゃんの恋バナに、ボクは耳を傾けた。「ウチの高校じゃ、桜木先輩は、神童って呼ばれていたんだ。成績は群を抜いていて、常に学年トップだった。てか、全国模試でも上位だったらしい」 桜木さんは、ボクの目から見てもそんな感じだ。「沈着冷静で、いつも穏やか。そして、あのフェイス。ウチのような隠れファンは多かったと思う。でも、目に見えない壁を感...
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後ろの席の飛川さん〝015 見かけで人を判断してはいけません〟

十三本のロウソクの火を吹き消して、誕生日の歌をみんなで歌って、ケーキを切り分けると歓談かんだんタイムが始まった。 鼻の下を伸ばした飛川ひかわさんは、尾辻おつじさんにべったりだ。「いつも主人がお世話になっています。未来の妻の月読つくよです。ほほほほほ……」 お客さんに、微笑みかける飛川さん。隣で終始無言の広瀬さん。そして、お客さんの苦笑い。 ボクにとっては、何もかもが非日常で、実感がまるで湧かない。さしずめ、映画を観ているような感覚だ。ボクはというと、芸能人の記者会見のように、ゆきさんと近藤さんから、鬼のような質問攻めだ。「黄瀬きせ君、彼女とかいる?」「もう、アケミちゃん。そんなのハラスメントに...
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後ろの席の飛川さん〝014 誕生会の送迎は、事前に連絡を取りましょう〟

五月七日は、ボクの誕生日である。その前日、ゴールデンウィークの最終日。 お昼のうどんを済ませたボクが、部屋で三島文学を満喫しているのは、偶然ではなく必然だった。飛川ひかわさんの邪魔はない。それを見計らったかのように、ボクのマンションのチャイムが鳴った。「ガクちゃん。広瀬さんって子が、玄関にいるんだけど。それが、とても美人なの……」 予期せぬ美少女の訪問に、ママが驚いたのは語るまでもないのだが……。 何事も、度を越せば恐怖である。ママの複雑な表情が、そのすべてを物語っている。広瀬さんが美少女すぎるのだ。だからママに罪はない。「ボクが話すから大丈夫だよ、ママ」 玄関へ飛び出すと、広瀬さんが立ってい...
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後ろの席の飛川さん〝013 女の子の顔に傷がついたら大変です〟

ボクの同情心などつゆ知らず、声を荒げる飛川ひかわさん。「忍、代わって!」 広瀬さんから手際よくスマホを奪うと、飛川さんはテレビ通話に切り替えた。ボクにも会話が丸聞こえだけれど、気にも留めずに話を始める。「ちょっと、桜木君でしょ? 余計なことをしてくれたのは?」 甲高い声で、怒りをスマホにぶつけている。「なんのお話でしょうか?」 こっそりスマホを覗くと、そこには眼鏡をかけた男性が……飛川先生と同じくらいか? どう見ても……ボクが桜木君と呼べる年齢ではない。「ベルトの少女」 ぽつりと呟つぶやく広瀬さん。「あぁ、その件ですかぁ。春休みのうちに、T大の新入生を調査して、手を打ちましたが、何か問題でも?...